スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

私は誰か?

最も信頼できる覚者の一人として
ラマナ・マハルシがいます
ラマナは「私は誰か」を問いなさいと
終始言っていました


この問の答えを先に言ってしまえば
「私は誰でもない」「私はいない」
になります


その昔は、その答えを自分で苦労して
導き出す事が肝要であるといった
雰囲気でしたが、今はもう答えが世間に
出回っている時代です


そして、この問いには少しトラップが
あるので注意が必要です


「私は誰か」を自問する場合、
普通は「Who・誰」を探してしまいます


私は、人間であり女性であり会社員で
あり性格は温厚で…、でもそれらはただの
概念だ、役柄だ、それらは幻だ。
結果、私はいないとか、私は純粋な意識だ
とかになる訳ですが


ここに肝心なことの見落としがあります


それは、答えで「私は…、」と言って
しまっている事です


「私は誰か」を自問する際「私は」の部分
を無意識的に受け入れてしまって
いるのです、そして
答えにもこれを使ってしまっている
「私」でなく「誰か?」の方に
意識が行ってしまっている訳です


「私」が当たり前に存在してしまっています


本来、この問いは「私とは何か」であるべきなのです


意識の最初に立ち上がる「私」という感覚
これを何かを問うことが必要です

 
私とは何か


朝、目覚めとともに意識が立ち上がり
最初に出現する私という感覚
これは一体何なのでしょうか


また、先に答えを言ってしまえば


この「私」とは、たんなる「シール」です


ペタペタ貼るあのシール
何の根拠もなく意識の中の世界で任意に
貼られた目印シールのようなものです


まずは自分の皮膚やその内側に
「私シール」を貼ります
木や風、太陽や動物達には貼りません
マインドや思考にもシールを貼ります
シールが貼られているものを
私として認識します


そして自らシールを貼っておいて
その事を忘れてしまっています


シールを貼るに際して、全く根拠はありません


自分がコントロール出来るものを私として
区別している
と言う人がいるかも知れませんが


太陽や月の動きをコントロールできない
ことと同様に、心臓や内臓の動きも
コントロールすることはできません
ほんとうの所、感情や思考すらコントロールできていません


失ったらこの身体が死んでしまう物を
私として区別している
と言う人がいるかも知れませんが
風や海を失ってもこの身体は死んでしまいます


つまり、意識に浮かび上がるもの達は
意識の前では身体も木も風も平等である
のに、何の根拠もなく体と思考にだけ
私シールは貼られているのです


私と同じ意味で「自分」という言葉が
ありますが
これは「みずから分ける」という意味です
つまり、ほんらいは一つのものを
みずから「自」と「他」に分け
「自」の部分を私としているのです


そしてシールを貼る役割をしているのは
マインドです。しかし
そのマインド自体もシールを貼られた思考体です


そのマインドにシールを貼ったのは
親かも知れませんし
幼少期の環境かもしれません


シールを剥がしてみませんか


目印シールを剥がして現れるものは
意識が私だ、世界が私だという拡大感覚
若しくは、私はもういない
世界には誰もいない、という消滅感覚
かも知れません


拡大感覚は西洋的な目覚め
消滅感覚は東洋的な傾向です
この2つはバランスさせた方が現代的です


もし、ラマナが今生きていて「私は誰か」
を問うたならば、本当に体感している人は
私という言葉は幻想であり存在していない
と答え、少しかっこいい人は
沈黙をもって答えるかも知れませんね


この「私の幻想性」を見破って
自分の非個人性に気付くのは
スピリチュアル探求においては
ほぼ一番重要なことで無いかと思います


確かに、今の日本には
これを解かり始めている人が
増えていると思いますが
頭だけの理解で無く
感覚として腑に落ちると
あなたの探求においての
起点やテコとなり
あなたを素晴らしい場所に導きます