スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

「私」が消失したあとに何が残るのか 悟り①

「私」とは、根拠なく妄想された
自他を分ける為の印です。


コントロールできるものを
「私」として認定しようとしても
心臓の鼓動や思考などは
月の運行と同様にコントロール
できていません。
また、身体は常に意識の中心にあるから
という理由も根拠がありません。
身体には
意識の中心に常にあるという特徴が
あるだけなのです。
太陽に輝くという特徴があるように…。


印を貼る確かな根拠はどこにもないのです。
印は単に任意の概念です。


逆に「輝くものが私」という設定をしても
いいのです。


その印が幻想であると腑に落ちた時
「私」は消失します。
元々無いことが分かります。


ただ
その幻想は強く根付いていますので
何度も深く思い起こす事で
元々無いという事を少しずつ納得させる必要があります。


強烈な絶望や
マインドが停止するほどの満足でも
急激な変容が起こる事もありますが
少しずつやっていくのがお薦めです。

 

そして、「私」が消失したあと
何が残るのでしょうか?


実は、殆どのものが残ります。


身体もマインドも感情も木も風も月も残ります。


ただそこにはもう個人性は無くなっています。


私の身体ではなく、ただ身体があります。
私のマインドでなく
ただマインドがあります。
ただ感情があり、ただ月があります。


身体もマインドも感情も通常どおりに
動いていますが最早特別なものではなく
木や月や雲と同等です。


悟った人がよく「これこれ、ただこれ」と
言いますが、その状態です。


身体・マインド・感情・木・月・雲と
いった対象が、個人性なく認識されます。


それは、別の言い方をすれば
「個人性のない意識のすべて」
「意識の中に存在するものすべて」
と言えます。


つまり
「私」が消失したあとに残るものは
「意識」です。


そして、悟った人がよく
「私は、純粋な意識だ」とかいう訳です。


「純粋な」が付くのは
個人性がないという意味で付いているのです。


これは大きな悟りの一つですが
少し虚無的な雰囲気を伴います。
そして少し不完全です。


というのは
意識は認識されている対象であり
客体であるからです。


つまり、認識している主体が見当たらないのです。


肝心なものが見当たらない。


意識を認識しているものとは
何なのでしょうか?


―「私」が消失したあとに何が残るのか②へ続くー