スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

「私」が消失したあとに何が残るのか 悟り③

ある種の悟りに達した人達が見る世界は
「沈黙や無」が「個人性のない意識」を
認識している風景です。


つまり、世界の構成が
主体=「無・沈黙」
客体=「意識」
であると感じられる訳です。


そこには主体と客体という二つのものが
存在しています。


ここに分離があります。


実は、この分離がとても重要なものを
この世界に作り出しているのです。


それは「在る」というものです。


というのは、二つのもの
何かが何かを認識してはじめて
「ある」という現象がおこるからです。


主体、又は客体が一つだけあったとしても
世界は存在できません。


つまり
「分離」が「存在」を作り出しているのです。
もう一歩踏み込んで言えば
「分離」が「世界の存在」そのものと
言ってもいいかも知れません。


ですが、探求者の多くは、
これが少し気に入らないのです。


分離がいけない訳ではありませんが
分離には統合の必然性を感じさせるものがあるのです。


また、分離には
孤立や争いなどのネガティブな予感を感じさせます。


探求者は統合させたいのです。
または、統合されている事を思い出したい
その先に行きたいのです。


深海に潜るダイバーや
高高度飛行記録に挑戦するパイロット
のようなものです。


実際に役に立つかどうかは分からないが
行ってみたいのです。


では、主体である「無いもの」と
客体「意識」の統合とはどのようなものでしょうか


主体である「無いもの」は
「無」「沈黙」「静寂」「スペース」「余白」
と表現できますが、これは
「無」とは言っても相対的な無です。
「無がある」と表現している時点で矛盾が
あり完璧ではありません。
そして「沈黙・静寂」には時間があり
「スペース・余白」には距離があります。


統合したものは
それらがありません。


時間も空間もないのです。
「対」が「絶たれる」のです。
「絶対的無」で、「ゼロ」です。
そして、
おもしろい事に、記憶も無くなります。


体験をすれば分かるのですが
それに触れ、強烈な何かを感じても
感じた途端に忘却するのです。
体験と忘却がマーブル模様でやってきます。


瞑想の中で体験する人も
日常で突然に体験をする人もいると
思いますが、正確な記憶が無い為
説明するのがとても難しいと思います。


その説明のし難さは
夢見のない熟睡に移行する感じや
夢を見てそれを短時間で忘れてしまう感じ
に少し似ています。


また、記憶のない産まれた初期の頃の感じ
多分、死や産まれる前の感じにも
近いと言えます。


とにかくこの体験は
今まで探求してきた地平の地続きでは
無いような感じがします。
今までとは全く違う何か
もっと言えば全く関連性のない何か。


この領域は本物の冒険です。
ときめくと同時に趣味性が強く
少し変人の領域かもしれませんが…


そして
この体験に接触する地点は
言葉で説明できるギリギリの場所です。
この文章を書いているこの身体も
これに付いてまだ探求が必要です。
引き続き、この日記を使い詳細に
探求していきます。

 

これは補足になりますが


探求における確かなお薦めは
「ある」を超える究極領域でなく
「沈黙」が「個人性のない意識」を認識
しているという事を腑に落とす領域です。


そこは、優しさと救いと至福に満ちた
素晴らしく豊かな場所なので
あなたの現実生活にも
きっと役に立つと断言できます。