スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

君の心は君ではない

君は可愛い犬を飼っています
毎日散歩に連れて行き
食事を与え、楽しく遊んであげたりもします


この犬はけっこう忠犬で
君に見知らぬ人が近づくと
吠えて追い払ったり
散歩をしていて君が誰かに追い抜かれたり
すると、追いかけて抜き返そうとします
この犬は、君が強く速くそして
安全であることを望んでいるようです


ほんとうに可愛いやつです


あまりにも可愛がり過ぎているうちに
だんだん犬の気持ちが解かるようになりました


犬は何が嬉しくて、何に対して怒り、何に
興味があるのか、手に取るように解ります
そして、解かれば解かるほど
その犬に夢中になってしまいます


やがて、君の意識はその可愛い飼い犬と
ほとんど同一化してしまいました


君は野を走り
君は他の犬と吠えあって争います
美味しい餌を食べ
街の色々な匂いを嗅ぎ楽しみます
ボールでも遊び
他の素敵な犬と恋に落ちたりもします


そのかわいい飼い犬の名前は「こころ」と言います


これは、ちょっとしたホラーのように
感じられますが実際に起こっている現象です


日本人は「君のマインドは君ではない」
と聞くと「そういう考え方もあるのか」
と冷静に受け止めますが
「君の心は君ではない」と言われると
多くの人が拒否反応を示すと思います


日本人は、それだけ「心」を大切に思い
それに同一化しているという事ですね


でも本当に「君の心は君ではない」のです


君が生まれた時
最初に有ったものは存在です
名前もなく、意味もなく、意図もない
純粋な存在でした
身体もありましたが、それは自動的なもの
木や雲や月と同等で存在の中の意識に浮かび上がるものです


そして
身体に宿る小さなシステムもありました
それが「心」です
そのシステムの目的は、物理的な身体と
社会的身体を保守することにあります
言い換えると、「生きる」という事です
その絶対命題の為にアルゴリズムとして
成長していったのが「心」なのです
ですから
彼らにとって、真理とか本当の事とかは
どうでもよいのです
「生きる」ということから逆算して
アルゴリズムが出来ています


少し例をあげると
動物はかわいいから大好きと言っている人
植物は綺麗だから大好きと言っている人が
いますが、その人たちの食卓にも
動物や植物が上がります
その時
思考や心は、停止し深追いはしません
または、「感謝して食べているからよい」と
いった勝手な理屈を作ります
この理屈も「生きる」という命題から
逆算して作られている訳です
食べられないと身体の保守が困るのです
真理とかは関係ありません
これは社会的な身体に対しても同様です


しかし、これはこれで良いのです
「心」はしっかりと役割を果たしています
免疫機構なんかも体を守るという意味では
「心」に似ていますね


問題なのは、「心」というこのシステムに同一化してしまうことです


「心」というのは野性的で粗野なのです
利己的な裁定者で、真理は二の次です
ポジティブとネガティブが混在し
幸と不幸の振幅が大きいので振り回されます


とくに目覚めかけている人は
このシステムに同一化したままだと
違和感で混乱し、苦しいのです
自己嫌悪や自己否定的になる事もあるでしょう


心に同一化したままでパラダイスな人達も
大勢いますが
この文章を書いている身体は
そうでない人に向けて書いています


覚者OSHOのアクティブ瞑想などの核心も
この同一化したものを「剥がす」こと
にあります 


しかし、瞑想は向き不向きがありますので
ここでは、日常で出来る心の同一化対策
を説明します


まず
基本的に同一化の解除はできません


「え?」
と思うかもしれませんね


というのは、何故かというと
今この文章を読んでいるあなたは
「心」(システム)だからです
言葉というのは「心」だけが理解し
「心」だけに届きます
そして、その「心」に剥がれろと言っても
剥がれようがないのです。
無垢材に向かって異なる材質のものに
分離しろと言うようなものです
剥がしたとしても
2つの心になるだけです


そして
よくスピリチュアル界隈では、この場面で
自分の心を見つめる瞑想などを
勧められますがこれも余り期待できません
これも、心を2つに分けて、一つの心で
もう一つの心を観察するに過ぎないからです


ではどうすれば良いかと言うと
やり方は3ステップあります


1つ目は
自分は「心」というシステムなのだと
深く理解し悟ることです
「自我」「マインド」なども
「心」の言い換えで同じものです


2つ目は
「存在」を意識します
心というシステムがただ1つ在ったと
してもそれが何かに認識されなければ
無いと同じです
「存在」しているという感覚は
主体に認識されているシグナルなのです


3つ目は
主体(あなたでは無いもの)を意識します
とは言っても主体は見つかりません
無いもの、わからないもの、が主体で
あるからです
見つかったとしたら、主体ではありません


ですが
主体からの視線は感じられるのです
この、見られている感覚
見守られているという感覚が
「存在」の感覚
「祝福されている」感覚
「気付き」の感覚なのです


この感覚の中に寛いでいると
やがて変容が起こり始めます

 

-補足-
けして「心」というシステムを
敵視しないでくださいね
この子達も大切なものなので