スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

本当の気づき

「気づき」という言葉は
スピリチュアル界では良く使われます
そして瞑想でもこれを良く使用します


代表的な手法は
「自分の思考に気づいているようにする」
というものです


ですが、だいたいは失敗します


この自分の思考や想念に気づく瞑想を
している人は、多くの場合
「自分の思考を自分の思考で観察する」
になってしまっているからです
つまり、思考を二つに分割して
一つの思考でもう一つの思考を観察して
いる訳です


そして
観察される側の思考が静かになっていけば
「今日は中々上手く行っているな」と
観察する思考が考え
逆に
観察される思考がうるさいままだと
少しイライラしながら
「今日は上手く行かないな」と思うのです


これだと
二つの人形を使った一人遊び
分割した二つの思考の遊戯になって
しまいますので
変容も何も起こりません


でも
これは瞑想をしている人が悪いのでなく
教えている人が失敗しているのです
普通、これらの指導者は
「想念に気づきなさい」とか
「常に気づきを持ちなさい」とかと
指導しますが
これだと
あたかも、瞑想をする「あなた」が
自分の想念に気付くのですよと言っている
ように受け取られてしまうのです
そのように教えられた人は、当然
「そうか、私が気付くのか」となります
そして、自分が自分の想念に気づくように
努力するのですが
それだと単なる自我やエゴの普通の活動と
変わりがなくなってしまいます


十分な体験がある指導者ならば
気づいているのはあなたではなく
あなたは「気づかれている」と言う筈です
短くして言うならば


「気づかれ」です


そして
肝心な主体である「気づいているもの」が
何であるかも説明する筈です
気づいているものは「あなた」ではなく
非個人性の何だかわからないものだと
はっきりと言うでしょう
「これ」とか「真我」とか「神」と
表現する場合もあるかも知れません


あなたは、非個人性の何かに
常に見守られているという感覚を
大事にしなさいと教えるでしょう


キリスト教での
「祝福」はこの感覚を指しますし
大覚者のニサルガダッタマハラジは
大いなるものに認識される感覚を
「在る」と表現しました
つまり、神に気づかれていることにより
すべての「在る」が生まれている
という訳です


名だたる覚者もあまり「気づき」という
誤認しやすい言葉は使いません


実際に、この辺りの切り口から
悟るような人も
だいたいは、大いなるものや神の視線に
祝福を感じ、気付かれている事に恩寵を
感じ、そこが起点になって開きます


やはり
「気づき」でなく「気づかれ」なのです