スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

マインドは悟れない

「私は悟りたい」と、思うのは
マインドですが
マインドは基本的に悟ることが出来ません


構造的に「それ」や「神」が見えないのです


たとえば
カエルなどの視覚は、止まっている物は
見えず、動いているものしか見えませんが
マインドはこれに良く似ています


カエルの視覚は「動き」を認識しますが
マインドは「差」を認識するのです
右か左か
上か下か
美しいか醜いか
賢いかそうでないか
有るか無いか


任意の基準を妄想し
それに対する差だけを認識します


それに対して悟りや神というのは
何処にでも遍在していて
何に対しても平等で
永遠に存在しているので
マインドは
どこにも「差」を検知できないのです


「無限」や「永遠」をイメージし難い
ことにも少し似ていますね
マインドには区切りが必要なのです
そうでないと比べられませんから


マインドは差が少ないものは
つまらないもの刺激の無いものと
感じます
そして、差が無くなると認識不能
無記憶の状態になります


産まれる前や死後、夢見の無い睡眠
瞑想で中心に触れた時などがそうです
夢見の無い睡眠などは毎日体験している
はずですが、何も記憶に残りません
同様に、マインドは
悟りや神にも何時も触れているのですが
記憶にも残らず、何の感慨も感じません


では諦めるしかないのでしょうか?


そうです、諦めます


悟りを開いた人とかで良くある
パターンですが
考えられる限りの修行をし
会いに行ける限りの覚者に会い
何十年も瞑想をしたのに悟れない
そして
「もう悟れない」と感じた瞬間に
悟りを開くというものです


ここにヒントがあります


「俯瞰する」という瞑想もそうですが
「私が悟る」という思考には
雨粒一滴が、海を飲み込もうとしている
ような無謀さがあります
それに対して、諦観をすると
「私が悟る」という意図や意思も消え
それと同時に若干自暴自棄気味ですが
「私」という概念に対しても思い入れが
無くなります
「私」や「想念」が落ちる訳ですね
結果
自他の境界が薄く、意図も意思もない状態
となり、悟りや神に似てきます


音叉が同じ周波数の音に共鳴するように
諦観した人にそれが流れ込むのです
そして、自分が悟る訳でなく
祝福が遍在することを知ります


仏教でいう他力本願や
スピリチュアルでいうサレンダー明け渡し
は、本来こういう状態を言います


他力本願の
「念仏だけ唱えていれば極楽へ行ける」
といったフレーズは、ちょっと怪しい
ビジネストークのような印象を感じますが
本来は、神の無限の大きさの前に
「私」の幻想性を理解し悟りに誘う方法です


また、サレンダーは特定の個人に明け渡す
のではなく、ただ明け渡す事を指します
それで神とのシンクロが起こります


修行の末に諦観する人もいれば
不幸や悲劇で諦観し悟る人も
いるようですが
今の時代は、もっと素早くその領域に
行ける筈です


つまり
先に諦観した状態を作れば良い訳です
ポイントは
「私」という「区切り」の幻想を落とす
「私」に付いた雑多な想念を見破り落とす
そして
悟りは誰のものでもなく
遍在するもので
自分が悟る訳ではないことを知る、です
通常のマインドは、
「私」という有限な状態なので
無限との共鳴を起こすことは出来ませんが
諦観の状態を作れば
共鳴を起こすことが出来ます


しかし、けして悟った「人」が
共鳴するのではなく
「悟り」との共鳴だけがある
という感じでしょうか


雨粒一滴が海を飲むのでなく
海に雨粒が溶ける感じです
ただ、身体が生きているうちは
雨粒は雨粒として存在しなければ
ならないので
雨粒も本質は海と同じものだと知る感じ
と、言った方が良いかも知れません