スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

本当の幸福につながる行動

君は目的を持って行動しています
そして
許される限りにおいて
常にベストを尽くしています


大会で入賞するために
日々の練習に汗を流したかも知れません
良い大学に入る為に
懸命に勉強したかも知れません
同性や異性に好かれる為に
おしゃれや言動や立ち居振る舞いに
気を使っているかも知れません
収入を上げる為に
頑張って資格を取ったかも知れません


理想や夢を追っているのかも知れません


これらの行動は、一昔前ならば
たとえ目的が達成できなかったとしても
とても充実した濃厚で幸せな行動でした


しかし
今の時代は、これらの風景が
何故か感情移入できない
古い映画のように感じたり
存在感の薄い陽炎のように感じたりする
人達が増えています


特にスピリチュアルに興味を持つ人達は
それが顕著です


この違和感の原因は何なのでしょうか?


この違和感は
これらの行動の根本的な間違いに
無意識に気づいている為に起こっています


少し分析してみましょう


まず、今まで行われてきた
これらの行動の意図は何でしょうか?


それは「私が幸福になる」という事を
意図としています


「私の幸福のイメージ」が目的となり
そのイメージが実現するようにと行動し
それが実現する事を期待しています


つまり
発想の大元が「私」であるのです


スピリチュアル的に言って
色々なものを阻害するラスボスである
「私」がここで登場してしまっています


「私」というのは
何の根拠もなく想像された「区切り」です
ただそう決めただけで
実は何処にも分ける線はありません
それは妄想のようなものです


コントロール出来るものを
「私」だという人もいるかも
知れませんが
心臓の動きも、思考も
コントロール出来ません
失ったら身体が死んでしまうものを
私だという人もいるかも知れませんが
太陽が無くなっても
人は死んでしまいます


つまり
「私」は陽炎よりも頼りない幻想なのです


そして、世間の全ての行動は
この幻想が起点になっているのです


起点が幻想である訳なので
感性の鋭い人たちには
それから始まる全てのものの存在が
希薄に感じられてしまうのです


その人たちは
それが砂上の楼閣であることを
無意識に見抜いているのです


この幸福という名の楼閣は
「私」という幻想の上に建っているので
とても儚いのです


それでは、幻想の幸福では無く
本物の幸福につながる行動とは
どのようなものでしょうか?


「幻想の幸福」を求める為の行動には
必ず、目的と期待がありました


それに対し
本物の幸福につながる行動には
目的と期待がありません
というか幸福を求めるという意図も
ありません


意図も目的も期待もないのです


ただ行動があります
目的もないので当然期待もありません


真の行動をするその人は
その時「私」の幻想性に気付いています
しかし
その人は概念的に頭で気付いている訳
ではありません
意識に顕われるもの全てが自分であると
感覚的に理解します


そして
この行動が出来るという事は
その人は、その時ほぼ悟っています


それは、爽快な感覚です
青空に溶けているような感覚
身体的な感覚で言えば
なぜか視野が明るくなったように感じ
首や肩のコリが霧散します


その人は、軽やかにベストを尽くします
何に対してのベストとか
誰にとってのベストという事はありません
ただベストなのです


その人は意識全てに溶けている為
その行動は全て正解となります


しかし
意識の世界の全てに対し行動している
からといって
その人は自己犠牲的に行動する訳では
ありません


自分の身体(魂)は
その世界の中心的な一部なので
とても大事にします


その人はその時
本当の本体である非個人性の光と
原初の個人性である魂が調和しています


そして、行動自体の起点は
その人の身体(魂)です


身体(魂)が好きに行動するのですが
非個人性の本体が世界全体を見ている為に
間違いを起こしようがないのです


その時その人は
個人の幸福とか、他人の評価とかは
全く気になりません
なぜならその世界には
個人も他人も存在しないからです


気分は
爽やかで、軽やかで、しなやかです


その人は
幻想の摂理でなく
天の摂理で行動しているので
物事は順調に流れるだけでなく
色々な存在が応援をしだします


人も動物も生き物で無いものも


傍から見れば
その人は天の為に行動し
天に愛されている人に
見えるかも知れません


そして、外側だけを見れば
その人の行動指針は
「ベストを尽くし、何も期待しない」だと
感じられるかもしれません
ですが、そこだけを真似をしても
ただの痩せ我慢になってしまい
その人と同じ様にはなりません


その人の行動のポイントは
「私の幸福」という砂上の楼閣を見抜き
その上で
非個人性と個人性を調和させていること
にあります


その人の幸福とは
幻想の区切りの内側である「私」が
得をしたり優遇されたりする事では
ありません
身体(魂)を中心とした世界の流れが
調和している事を幸福と感じます


区切りの内であろうが外であろうが
ごく自然に世界に対しベストな行動を
とります
魂がしたい事=世界がしたい事に
なるのです


その人の幸福は
その状態で行動している事そのものです


その状態だけでその人の身体自体も
十分幸せなのですが
幸せは、身体の外からも運ばれて来ます


周りの色々な存在が
その人を放って置かないのです


そして、その人の身体は遠慮などせず
その幸福も堪能するでしょう