スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

食物連鎖とスピリチュアル

子供の頃は、神様のことを
ダメな奴だと思っていました


なぜなら
いつも食卓に生き物の死骸が
出てきていたからです


食事、それは
動物や植物の死骸を調理したものです
そして、それらを食べないと自分が
死んでしまいます


人間だけではなく自然界を見ても
動物たちは生きるために
食物連鎖という殺しあいをして
暮らしています


植物たちも地上では
他の植物より高くなることで
日光の奪い合いをして
地中では根で陣取り合戦を
繰り広げています


その当時
これは地獄だと感じました
そして
もしこの世界を作った者がいたとしたら
とてもダメな奴に違いないと…


「感謝して食べれば良い」という
大人の声も謎理論に感じられました
それは、もし自分が感謝されたとしても
食べられたくなかったからです


なぜ、世界は地獄なのかという疑問は
ずっと頭の片隅にあり続けましたが
それと同時に
世界は地獄である筈が無いという
根拠のない考えも持っていました


そしてある時、思いついた考えは
個としては、地獄に感じるけど
生命の視点では、ただ流れがあり
種の視点では、逆方向に見たならば
献身があるのでは、と
考えるようになりました
つまり、種としてウサギがライオンを
身を挺して養っているのではないかと
そして、草がウサギを養っているのでは
ないかと考えた訳です


確かにこの考え方だと
世界は美しく見えない事もありません
しかし
個体を、生命の中の流れだと
見ることも真であり
種の視点を逆から見ると
献身になることも真ですが
「個体に苦痛がある」ことも真です
見方を変えたところで
個体の苦痛はまったく減りません


そして
この食物連鎖における
生命と個体の関係の様なものは
自然界だけでなく色々なところに
ある事に気づきました


まず、体の中でも同じような事が
起こっています
多細胞生物の細胞の働きで
アポトーシス」というものです
これは多細胞生物の身体全体が
上手くいくように
ある細胞たちが自死をするという
仕組みです


これは生命全体と動物たちの関係に
似ています


人間社会にもあります
社会全体が上手くいくように
ある人達の命が犠牲になるといった
ものです


原始社会の生贄や
共同体の存亡がかかった戦争時などに
これはよく起こります
平常時でも財界人と労働者の関係は
これによく似ています


結局
世界は全体と個体が入れ子状態に
なっていて
その立ち位置で正解と不正解が
入れ替わるということです


相似形が入れ子状態で存在する
まるでフラクタル写像のようですね


世界全体の層のどの部分に視点を置くか
どの部分に同一化するかで
全てが逆転するわけです


立ち位置により天国と地獄が
交互にやってきます


個人と同一化するか
会社や社会と同一化するか
国と同一化するか
生命全体と同一化するかにより
善悪、正解不正解、天国地獄は
入れ替わります


ここでスピリチュアル的な問いが
介入します


個人にも社会にも国にも生命全体にも
同一化できるあなたとは誰なのか?
むやみに同一化することで
苦痛が生まれているのではないか?
という問いかけです


そしてアンサーは
何にでも同一化できるという事は
何者でもないからだ
世界を分断し部分に同一化することが
争いや苦痛や孤独につながるのだ
となる訳です


人間に関して言えば
「私」や価値観や概念への同一化を解除し
非個人性を理解できれば
9割方の苦痛を除去できます
それと共に大いなるものを感じられます


ですが
精神由来でない苦痛
つまり怪我や病気の痛みは和らぎません
例えブッタが目の前にいても
食当りの苦痛は緩和しないでしょう


そんな時は非個人性でなく個人性が
役に立ちます
個人として
ベストな行動をとればいいのです
病院に行くか薬を飲むかです


人間は何とかなると思います
そして、その兆候も起こっています


問題は動物たちです
食物連鎖です


確かに非個人性の視点で見れば
ただエネルギーの流れと捉えられます
しかしこれでは
経団連の人間が、全体の利益だけを見て
個人の苦痛に無頓着なようなものです


正直なところ
この問題はまだ解りません


ただ、言えるのは
まず人間が助かる必要があるという事です
人間が本当に助からなければ
助かるという意味が判らないため
他の存在も助けられないからです