スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

誰もいない世界

 

「私は、なぜ私なのか」


という問いがあります
これは、人間が考えさせられる
かなり根源的な難問の一つです


世の中には
イケメンも大富豪も天才も
沢山いるのに
僕は、なぜその人達の担当ではなくて
なぜ、僕の担当なのか?
と、いう疑問です


不思議です


世界の中には人間も含め
意識のある生き物の総数は
天文学的数であるのに


その中で、なぜ「この人物」が
僕の担当なのか
なぜ、この視点に決められているのか…


この問題には
世界の哲学者や学者が取り組んでいます
そして、その人たちは幾つかの
推論を立てているようです


まず、その推論たちを少し紹介します


・私しかいない

 これは独我論というもので
 自分の考えている事は分るが
 他者が考えている事は分らない
 わからないから存在しないといった
 感じの主張です


・ただそうなっているとしか言えない

 哲学者の永井均氏は
 この問いには答えがなく
 神秘だと言っています


・私は生きとし生けるものの全てである

 心理学者渡辺恒夫氏は
 遍在転生観というものを唱え
 今、世界に現われている全ての生命は
 自分が過去や未来に転生しているものだ
 と言っているようです
 だから、全てが私である訳ですね


・私は全世界そのものである

 これはかの有名な
 量子力学シュレディンガー
 古代インドの経典ヴェーダにある
 悟りを示した「梵我一如」を支持し
 世界全体=意識=私
 であると主張しています


・心のイメージに過ぎない

 仏教の唯識では、全ては心の中のイメージ
 に過ぎず、本当は何もないと言っています
 確かに世界は意識の中にしかなく
 意識の外にある世界はありません


・世界には連続性がなく
 今の瞬間だけこの私を私と感じている

 無限の非連続の世界があり
 今の瞬間はこうなっている
 昨日、私は王であったかも知れないし
 一秒後、私は虫であるかも知れない
 この一つの「今」の中にある
 今を補完する過去と未来だけを
 見ているから
 私が継続していると錯覚する


等々があります
少し省いたり付け加えたりしていますが
いろいろありますね


名だたる方々が
いろいろと考えているようですが


意外にも、どれもが
皆さんも一度は独自に考えたような
内容なのではないでしょうか


現代において
精神性(スピリチュアル)を探求
している人たちは
本人たちの思い込みと反して
ヴェーダの内容やブッタと近い精神性を
既に持っていると思います


もしかすると、ある面では
その人達よりも進んでいるのかも
知れません


話は戻って
「私は、なぜ私なのか」ですが


この身体もこの問題をかつてよく
考えていました


そして、いろいろな人に尋ねたり
調べたりしていましたが
ある時、解決しました


面白いことに、この問題の解決は
「失恋での傷心の解消」に似ています


失恋をした時などは
その痛みを和らげる為に
いろいろな考え方を模索します


「この人は元々たいして魅力的でない」
「自分の成長に必要な事だった」
「もっと素敵な人を見つけるチャンスだ」
などあると思います


そして、その案に「そうだ!」と
納得しても
一向に痛みは消えないままです
理屈や理論は役に立ちません


というよりも
「解決した!」と思う事自体
解決していないことを示しています


本当に解決した時は
解決したという事自体を忘れています


この「私はなぜ私なのか」も同じでした


ある日の夕暮れに
この問題を考えながら
バスを待っていました


その日は、暖かいでもなく寒くもない
心地よい気温と湿度です


そしてただ、行き交う車の
ヘッドライトを見ていると
自分が妙な感覚であるのを気付きました

 

ヘッドライトや風景が滲んだように見え
あたりに騒音はあるのですが
とても静かな感じです


また、奇妙なことに
車自体の存在感より、むしろ
通り過ぎる車と車の間隔の空間が
だんだんと存在感を増していきます


そして、唐突に「あ、誰もいない」と
感じました
その時、世界には
自分も含めて誰もいなかったのです


「私」が消えれば
それの対をなす「他人」も消えます
「私と他人」がいないならば
世界には誰もいない訳です


それと同時に
「私はなぜ私なのか」という問題が
消えるように解決しました
「なるほどね」という感じと共に
興味が無くなり忘却するような感じ
問い自体が、元々無かったような
感覚でした


「私」が消えれば
「私はなぜ私なのか」も消える訳です


この体験の感覚は
短時間ですぐに元に戻りましたが…


そして、世界に誰もいないなら
さぞ寂しくて、孤独な世界だろうと
思いがちですが、意外にも
それは、とても豊かな世界です


「孤独」とか「寂しい」という感情は
「私」が存在する事で生み出されていると
その時、判りました


その時の世界は、上記の推論でいうと
「梵我一如」の 私は世界であると
唯識」の 私は心のイメージであり
本当は何もない
を合わせたような感じかも知れません


アドヴァイタ ヴェーダーンタ
ノンデュアリィティー
非二元論などでは


「私は誰か?」とか
「私はいない!」とかを起点として
探求や瞑想をしますが


よく考えてみると、その時
たえず、私、私…と言っていて
それを強く意識しています


「私はいない」と言うのは


失恋の傷心を癒す際に
「傷心などない」と言い張っている状態
なのかも知れません
本当に傷が癒えた時には
「傷心」という言葉も忘れています


スピリチュアルを探求する時
「私はいない」を唱えるよりも


「誰もいないこの豊かな世界」


を味わったり
その世界を探索した方が
より正しく、近道なのかも知れません