スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

自動人形を見つける

スポーツをしていて調子が良い時
自分の一つのプレイを
「まるで身体が勝手に動いている」
と感じた事はありませんか?


または、舞やダンスを踊っている時
楽器を演奏している時なども
「自分が自動で動いている」
と感じた事はありませんか?


または
上司への定例の報告や
何回も繰り返しているプレゼン
レジの仕事や接客などの
定型の仕事をしている時


自分が自動人形のように
「自動で仕事をしている」
と感じることはありませんか?
この自分を自動人形だと感じる瞬間


本物の俯瞰が起こっています


その瞬間
その自動人形を見つめる俯瞰の視点は
意図も意思も持ちません
少し奇妙な感覚を感じるくらいです


しかし、暫くすると
その自動人形の行動を評価したり
もっとこうすれば良いと感じ
コントロールしようとしてしまいます


その時で、俯瞰は終了し
マインドと同一化をして
普通に戻ります


よくスピリチュアルの説明では
「演じている自分を俯瞰する」という
言い方をしますが
この自動人形視のことを言っています


しかし
正確にはそこに「演じる」という
意思も意図もありません
意思があるものはマインドです


日常に現われる悟りの欠片
という記事でも書きましたが
強い感情や集中や恐怖でも
この俯瞰の視点は起こります


実は、
座って瞑想をしている時などよりも
普通に活動をしている時の方が
スピリチュアル的なシグナルは
絶えず起こっているのです


静かな瞑想を使って
自分の内側を観照しようとすると


ほとんどの場合
「内側を観よう」という意図が
発生してしまいます


意図があるものはマインドです


結局、マインドを二つに分割して
一つのマインドでもう一つのマインドを
見ているだけになってしまいます


自発的な統合失調の状態です


ただ、瞑想でも
この意図のない俯瞰の視点を
見つけられる場合があります


それは
特に俯瞰をしようとしない瞑想
たとえば、単に呼吸を見つめるだけ
といった瞑想をしている時や
意図や意思を持続できないくらいの
激しいアクティブ瞑想を
している時に、稀に起こります


ただ、稀にしか起こりませんし
瞑想の中で、これらが起こってしまうと
特別感や到達感がすごいので
その体験自体がマインド化し易いという
弊害もありますが…


その点、日常で俯瞰の視点や自動人形を
見つけていくというのは
特別感もなく、多くの体験をしながら
それに慣れていく事ができるので
間違いのない道です


昔の質屋の見習いは
本物と偽物の違いの説明を受けるのでなく
ひたすら本物に触れさせられたようです


それにより偽物に騙されなくなります


また、日常で見つける俯瞰の視線は
一見、特別感は無いように大したことが
無いように、思えてしまいます


ですが逆の視点、つまり
自動人形やマインドから見ると
俯瞰の視点は、祝福の光に見えます


誤解を恐れずに言えば
本物の俯瞰の視線は、神の視点です
日常でそれを見つけられるのならば
それに頻繁に触れられるのです


たとえば
自分が自動人形だと感じ易い
シチュエーションは
気楽なお茶会や飲み会などです


この時は、他愛もない会話を気楽に
楽しみますが、気楽であるが故に
会話の内容に真剣に同一化しなくても
OKな筈です


その場所で、他愛も無い会話を
「自動で楽しんでいる人形」を
探してみて下さい


そして
その自動人形を俯瞰しているスペースに
寛ぐと良いでしょう
やがて、コツが掴めるようになり
他の場面でも応用できるようになります


それは、他愛も無いお茶会で
見つけられるものです
ですが、その視点は「悟り」なのです