スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

覚者の盲点

「私は、まだ救われていない」と
感じる人は多いでしょう


今が苦しいから、憂鬱であるから
スピリチュアルの中で解決策を探します


キリストにしてもブッダにせよ
人々を救うために行動していました
なので、それらの潮流に期待してしまう
事は当然です


ただ、これらの古代の覚者達は
古代の人達に合うように教えを説いて
いました
比喩などにおいても古代の人達が
納得しやすい比喩になっていますし
社会をとりあえず良くする為の
緊急避難的な方便も含まれています


天国や地獄の概念も方便ですし
座禅なども、その姿勢にこだわる人も
いますが、手足の長いインド人が
地面の上で座る上で一番楽だ
という事以外の意味はありません


また
瞑想方法も自我の薄い古代の人達と
マインドの塊のような現代人とでは
とうぜん効果が変わってきます


現代人の私たちはスピリチュアルの
ディテールにこだわるのでは無く
エッセンスを見極める必要があります


その点、近代の覚者の言葉は
現代の私達に合っていますし
私たちの状況をある程度想定しています


覚者も大勢いますが
近代で完璧に悟った有名な覚者は
ラマナマハルシや二サルガダッタが
挙げられます


勿論
他にも大勢いると思います


そしてこの覚者たちに
「私は救われていない」という
悩みをぶつけたとしましょう


すると、シンプルな答えが返ってきます


「救われるべきあなたは存在していない」


という答えです
あなたという任意の枠は幻想であるから
あなたは存在しない
あなたが存在しないなら
あなたの苦しみも存在しない


という訳です


確かにその通りなのですが
ここに一つの問題が起こります


というのは
完璧に悟りきってしまった覚者
というのは
マインドまみれになっていた頃の
記憶をほとんど忘れてしまっている
ということです


これが覚者の盲点です


ですから、マインドのある人間を
あまり理解できませんし
マインドからノーマインドへの
移行の過程も親切に説明できないのです


ですから
完璧に悟ってしまった覚者は
「こんなにシンプルな事が
なぜ解らないのか」という
イライラの雰囲気を纏います


クリシュナムルティなどは晩年
「結局誰一人私のいう事を
理解する者はいなかった」と
嘆いていますし


二サルガダッタは直接会った者の中で
理解を得たものは2~3人ほどだろうと
言っています
彼の興味はマインドを持った人間より
悟りのその先、認識や存在を
超えた世界にすでに向いていました
ただ、出版される彼の本によって
理解する者はいるだろうと
期待もしていますが


これは一見、理解しない私達の方が
悪いように感じますが
マインド時代を忘れてしまったことを
自覚しない覚者にも問題はあります


つまり、私たちはこのマインドから
ノーマインドの過渡期の部分を自分で
探求する必要があるということです


もっと新しい覚者のOSHOなどは
「マインドをまだ持つ者は、これを
どのように感じるのか」という事を
事あるごとに自分の側近に聞いていた
そうです


弟子に寄り添うかなり親切な覚者ですが
やはり、マインド時代の記憶を忘れがち
なのです


完璧に煮えてしまった覚者というのは
素晴らしい存在ですが
何でも知っている訳ではなく
マインド世界のことについては
私達の方が詳しいのです


覚者によっては、菩薩のように
マインドの世界に降りてこようとする
人達もいますが
その行為はかなり苦痛を伴うようですし
その数はごく僅かでしょう


私たちは覚者をあまり絶対視する必要は
ありませんし、グルも必要ありません


「弟子はグルより劣っている」という
観念自体が覚醒の障害となります


あなたとブッダは対等なのです
というより同質です
むしろマインド世界に詳しいブッダ
言った方が良いかも知れません


私たちの当面の課題は
マインドからノーマインドへの
自分に合った橋と橋までのルートを
探すことです


私(マインド)が消失すれば
多くの苦痛は取り払われます


覚者は全体的な道を指し示す上では
とても頼りになります


覚者は自分が渡って来た橋を勧めますが
実はあなた独自の橋とルートが必要です


また
マインド時代の記憶を忘れがちな覚者には
この肝心な橋のパートでの詳細なガイドは
あまり期待はできません


その橋は自分たちの足と感覚で探すのです