スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

現代のブッダたち

仏教の経典はブッダの死後になって
書かれ始めました
ブッダが生きている時は口伝えや
暗唱などにより情報伝達が
行われていたようです


また
偶像を拝むことも禁止されていましたが
死後、数百年後から仏像が
作られ始めました


仏教の構成の面白さは


まず、現実の詳細な説明があり
その後、色々説明したけど
実は「それもみんな空なんだよね」と
看破している事にあります


ブッタの死後に書かれた経典達の多くは
主に夢(現実)の説明です


その経典内で使われている
基本的な考え方の五蘊(ごうん)では
身体・感覚・想念・心・意識を説明し


十二所(じゅうにしょ)では
視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚・知覚
を説明し


十二縁起(じゅうにえんぎ)では
煩悩や識別や執着や生や死について
説明しています


また、四諦(したい)では
煩悩や執着が苦の原因なので
それを滅して、清く正しく
生きましょうね的な事を
説いています


とても現実的な説明なのですが
これらは結局、目覚めた後で無く
夢の中の世界を説明しています
夢の中でより良く生きる方法です


この経典を書いた人達は
とても頭が良くて
ブッダを愛していたのでしょう
そのため、これらの考え方を含む
経典類は異常に緻密に詳細になってゆき
学術的になっていきました


ブッダとしては
これらの経典の話は前振りであって
現実では、こう見えていて
確かなもののように感じられるけど
「本当は夢、空なんだよね」
という所に持って行きたかったのだと
思います


実際にブッダ
これらの経典の基本要素も、最終的に
空である、無いものだと説いています


そしてその核心である「色即是空」は
在る事は無い事で、無いことは在る事
という意味です


一見
何だかイメージし難いフレーズです
ですが
実際の「夢」をイメージすると
理解し易いと思います


夜見る夢の中では
喜びも悲しみも、綺麗な風景も
成就された恋愛も
長い歴史も、恐怖も
確かにあります


しかし
その夢は、確かに在るのですが
目が覚めてみると
その夢の世界は、どこにも無い訳です


空想や妄想も同じですが
在る事と無い事が同時に存在しています
確かに在るのにどこにも無い
これが色即是空です


現実に落とし込めば
いま確実に認識して確かなものだと
思える現実も実は幻な訳です
比喩ではなくて
本当に幻想だという事です
「私」や「苦しみ」や「嫌悪」や
歓喜」も幻であるだけでなく
身体や大地や海も幻なのです


そしてブッダ
まず五蘊が幻であると気付き
苦を遠ざけ
その後、空に瞑想するようにと
言いました


これは、今風に言うと
まず「私」は幻想であると気付くと
私を憑代としている苦しみは消える
その後、存在と無に瞑想する
となります


現代に
スピリチュアルを探求している者達は
実は、図らずもブッダの核心を
日々、試行錯誤している訳です


また、四諦では
苦の原因は煩悩や執着であり
執着を断つことが
苦しみを滅した悟りの境地だ
それには正しい行いをすると良いと
言っているようですが


これは、ブッダの最初期の説法で
たぶん、話の導入であり
一般に向けた方便である可能性が
ありますし、夢の説明です
なので
あまり厳格に受けすぎる必要は
ないかと思います


ブッダ自体、釈迦国の王子であり
大抵の煩悩は体験し尽しています
初めから俗的なものは全て
持っていた訳で、結果的に
体験し尽くす事でそれを落としています
そして、最後に残った煩悩が
「悟りたい」というものだった訳ですが
これもやり尽くした訳です

 

印象としては、煩悩と執着を滅した
という感じではありません

 

煩悩や執着はそれにまだエネルギーが
あるうちに捨てようとすれば
余計に強化されてしまいます


ブッダのように体験し尽くして
しまった方が良いのです


ただ、私たちは
その煩悩や執着に耽溺するのではなく
確信犯的に俯瞰しながら
それを燃やす必要がありますが


この点においては、王子である
ブッダはある意味イージーモードです


巷に煩悩や執着の手招きが溢れ
それを全て体験し尽くす事が出来ない
現代のブッダ達の方がハードモードです


世界に想念が多すぎる現代では
煩悩を体験し尽くして落とす事と
核心を探求することとを
同時進行していかなければ
ならないかも知れませんね