スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

記憶喪失の聖女

街中では、稀に
聖女や聖者を見かけます


いろいろな状況で見かけますが
わりと多くの場合が
小学生くらいの子供です


そして、彼女らや彼らは大抵の場合
とても優しい親と一緒にいます


ある時は、入院している母の
傍らにいる少年であり
また、ある時は
エレベーターの中で同乗した
父親に連れられていた少女でした


少年は、母に言われて
大部屋の他の入院患者にお菓子を
配っていました


少女は、父がエレベーターから
先に降りたあと、他の人が降り易いように
エレベーターの扉を抑えてくれていました


何気ない日常の一コマですが
その時の彼らの瞳は
聖女や聖者のそれでした


瞳の奥は
何の恐れや恐怖もなく
価値観で測ることも
何の意図も作為も無いもの


そこは、まったくの空でした


空であるのに
虚無ではなく、優しいのです


子供は、集団でいる時は
うるさく、悪意がある場合も多いです
そんな時は、名実ともに「餓鬼」たちで
ある訳です


なぜ、子供たちの集団が
劣化集団になり易いかというと


子供たちの世界は
野生動物の世界のようなもので
弱肉強食であるがゆえに
悪くて強くなければ
集団の中で過ごし難いからです


そして
集団の中で生き易いように
より悪くより強いものを
必死で演じます


優しい良い子たちもいるのですが
幼い社会では
良貨は悪貨に駆逐されます
自分の身体を守るために
低い所に合わせてしまうのです


学校や集団の中では
優しい彼らも、不本意ながら
自らより低俗な何かを演じなければ
なりません


それに比べ
病院の少年とエレベーターの少女は
穏やかで優しい親と一緒にいることで
完璧な安心の中にいる様子でした


学校という環境では、この二人も
きっと、何かを演じている事でしょう
しかしその時、安心の中にいる彼らは
何も演じる必要がなかったのです


親の環境作りが
素晴らしかったのかも知れませんね


彼らに限らず
人は、何も演じる必要がない時
聖女や聖者になります


「なる」というより
それが本来の彼らの姿なのです


大人の私たちは、子供の時よりも
多くの役柄を演じています
そして、演じていることを忘れ
役に成り切ってしまっています


まず始めに、どこにも存在しない
幻のような自分の過去との整合性を
取るため
自分のキャラクターを演じます


そして、良心的な人間を演じ
悪人を演じ
人気者を演じ
やさしい恋人を演じ
男や女を演じます


しかし、本来あなたは
何者でもありません


社会的な要求もあるため
私たちは絶えず、何者かであろうとし
何者かに成ろうとしていますが
本来、何者でも無い者が無理やり
偽りの何者かになる訳ですから
そこには、常時ストレスがかかります
慢性的に苦しいのです


そして、何者かを演じている者は
他人に対しても
何者かであることを要求します
結果「苦」が伝搬していくのです


私たちも、海外旅行のように
何も演じる必要がない環境や
何も演じなくてもありのままを
受け入れてくれる優しい環境では
何も演じないでいられます


その時は
やさしい解放感を感じますが
それは、本当のあなた
何者でも無いあなたを
少し垣間見ている状態なのです


私たちが、何者でもない時は
自分のありのままを感じ
自分に対し、裁定したり
ジャッジしたりしません
他人に対しても、値踏みをしたり
ジャッジしたりしません


その時
あなたは、聖女(聖者)であり
あなたはあなたを救っていて
他者も救っています


あなたは
自分が聖女(聖者)であることを
忘れてしまっているのです