スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

絶望と至福 そして静寂と仲良くなる

私たちは、人生の中で何度となく
絶望や至福を体験します


これらの体験をよく調べてみると
そこにスピリチュアル的ヒントが
隠されていることが判ります


絶望と至福


これらは、相反するものですが
実は、ある視点から見ると
とても良く似ています


絶望は、何らかの理由で
「望み」が無くなってしまった状態です
その時、人は望むという事が
出来なくなり、そして、しなくなります
このような時は
もう全てがどうでもよくなり
「無になってしまいたい」などと思います


至福は、何らかの理由で
「望み」が叶った状態です
欲望が満たされた状態なので
その時、望みは消失しています
あまりにも至福である時は
気分が最高なのに何の欲望も無いので
「このまま無になってしまっても
いいかも」と思います


相反する絶望と至福ですが
私たちは、この状態の時
その場所に漂う「無や静寂」に
なぜか不思議な魅力を感じることが
多いようです


そしてこの時
悟りの扉は開き易くなっています


この絶望と至福というのは
波動やピストンの運動の
最下部と最上部に良く似ています


ピストンが最下部に達した時は下死点
と言い、それは絶望に似ています
また最上部に達した時は上死点と言い
至福に似ています


死点と下死点という二つの死点
上にも下にも動いてない瞬間の点であり
数学的にも
動いているのか、止まっているのかも
判らない不思議な状態の点です
つまり
この時の点の上下方向のベクトルは
ゼロだという事になります


絶望と至福という点も
望みや欲望というベクトルが
消えている為
人生という運動の中にあるにも拘らず
その点は、静止しています
それは、無重力的な状態です


そして
ノーマインドということになります


回教のスーフィーなどが探求する
回転舞踊する人の中心点も
回っているのに静止している
とても奇妙な点ですが
それともよく似ています


点には大きさが無いので
静止している点というのは
無と同質で同次元であることになります
そのため、そこにシンクロが起こり
その瞬間
同じ周波数の音叉が
共鳴を起こすように
無と静寂への扉が開きます


通常の私たちは、自分という点に
欲望というベクトルがあり
その点が運動しているため
線的な動きのある1次元に
住んでいることになります
なので、0次元の住民である
無と静寂にはシンクロをしません


もし、その時偶然に
「無や静寂」を垣間見たとしても
それとシンクロをしていないため
むしろ恐怖や虚無を感じてしまいます


絶望や至福という死点に立った時
そこにある「無や静寂」を怖いと
感じるのでなく、それに
安らぎや安寧を感じられる経験を
することは
実は、あなたにとって
とても大きな恩恵をもたらします


それは何故かと言うと


今は、色々なテクニックを使って
自我の境界を無くしたり
価値基準やバイアスを消したり
ジャッジしないようにする事で
ワンネスの世界を垣間見ることは
ひと昔前のように奇跡的に難しい
ということは無くなってきました


ですが、「無や静寂」の優しさと
触れ合う前に
強烈なワンネスを体験してしまうと
恐怖や混乱を招く可能性や
事故を起こす可能性もあるのです
最悪の場合
発狂することさえあり得ます


ワンネスの世界も純度を上げると
無と静寂の世界になります
しかし、ワンネスの純度が上がる前は
無や静寂の上に浮かぶ客体に過ぎません


主体であり、あなたの本体である
「無と静寂」を知らずに
客体の世界に同一化したまま
それが無になってしまったり
それが崩壊してしまうことには
自分が消滅してしまうような恐怖を
感じてしまうのです


なので「無や静寂」の優しさに
先に親しむことが大切なのです


しかし、だからと言って、その為に
故意に絶望しましょうと言う訳では
ありません、絶望や特別な至福だけに
その扉がある訳では無いのです


要は、私達の望みや欲望のベクトルが
無くなる死点、または私達が
ノーマインドになる瞬間を探せば
良い訳です


実は、日々の生活の中で起こる
取るに足らない小さな満足の瞬間にも
ちいさな扉たちは開きます


満足した事柄に
焦点を合わせるのではなく
小さな満足自体にフォーカスを
してみて下さい


満足の中に感情の高揚を見るのではなく
その時、瞬間的に欲望が消え、暫しの間
冷静な静寂が流れる無重力死点
楽しんで下さい


「無や静寂」ときっと仲良くなれる筈です


親しくなった「無や空、静寂や沈黙」は
あなたのスピリチュアルな旅において
守護天使のような役割を果たします