スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

意識の外側の世界

あなたは、自分の意識の外に
出たことはありますか?


たぶん無いと思いますし
たとえ出た事があったとしても
その時の記憶はない筈です


私たちは、瞑想しても俯瞰をしても
自分の意識の外側には出ることは
できないのです


俯瞰をしている時などには
「意識が意識を見つめている」
などと表現をして、少し
意識の外に出た気分になりますが
「私」が俯瞰していることを
「私」が知っている時点で
それは意識の世界の中にいることに
なります


つまり
私たちは意識という牢獄に
ずっと囚われ続けている訳です


意識はマインドとも、思考とも
意味や言葉とも、言い換えられます


また、意識は脳という物によって
作られていると思っている方も
多いと思われますが
意識なしで脳だけが存在する
という事はありません
意識よりも先に存在するものや
意識の外側に存在する物体は
ないのです


私たちは、何をどうやっても
マインドの中、思考の内側から
逃れられないという訳です


「真実を知ること」が「悟り」ですが
実は「悟り」には
意識世界の内側の悟りと
意識世界の外側の悟りがあります


「意識の内側の悟り」は
その語感から、あまり大したことが
なさそうに思いがちですが
とても実用的で役に立つものです


この悟りは
「自他の区切りは錯覚だ」
ということを知ることです
つまり、現状の
私がいて他者がいる意識の世界は
本当のところは、確かな区切りがなく
一人称でも二人称でも三人称でもない
一纏まりの世界だということです


そのことが腑に落ちれば
「比較」というものが薄れるため
物理的な苦しみ以外の苦しみが
とても低減します


また、その世界には、私も他者も
いないので「孤独」さえ消えます
我が家に帰ってきたような
世界が自分の庭であるような
安心感を覚えます


また、この真実を知っている人が
増えてゆけば、世界の争いも
間違いなく減っていくでしょう


なぜなら、人と人との争いとは
たった独りの人が
自らの右手で、自らの左手を
叩いているだけだと判るからです


実用的にはこの悟りで十分なのですが
探求者は、時が経つにつれて


意識されているこの被世界は解っても
「何が」意識しているかが解らずに
モヤモヤとし始めます


「意識そのもの」であるその人は
目が自らの眼球を直接見られないのと
同様に、意識を直接感じられません


意識された被対象世界は分かりますが
何という主体が、意識(認識)している
かが分からない訳です


意識している主体というのは
意識されている対象物以外のものです


その主体は
意識の世界の外側にあるということで


つまる所、本当のあなた(主体)は
「けして意識(認識)することが
出来ないもの」
という事になる訳です


そして、これにコンタクトするのが
「意識の外側の悟り」です


しかし
「意識することが出来ないもの」は
触ることも
記憶することも
想像することも
存在することさえ出来ません


「それなら、永遠に
コンタクトを取れないじゃないか!」
と思ってしまいますが


人間というのは不思議なもので
出来ないはずなのに、なぜか
それにコンタクトできる場合が
多々あるのです


たとえば、サマーディに入った時です
覚者によっては
目を離すとすぐにサマーディに入って
しまう困った覚者もいたようですし
神の名を唱えれば途端に入ることが
できる覚者もいたようですが


普通に瞑想をしている私達だと
数年やっていて一回あるかどうかの
深く入れた会心の瞑想が
それに当たります


そして、このサマーディに触れると
その時、記憶も時間も痺れるように
消えていきます
中に入ると何もかも消え
そこから出てきた時には
中での記憶は無いのですが
清浄で大きな充足感のみがあります


また、瞑想だけでなく日常でも
不意にこれに触れる瞬間
これを思い出す瞬間は訪れます


何か(神)から
気づかれている感覚
祝福されているという感覚です


現在日本にいる、とある悟った人は
「青空の感覚」とも言います
これはジャッジもなく意図もなく
無条件で受容されている感覚です


また、状況によっては
人の瞳や動物や自然物からも
それを感じられる事もありますし
自らの身体の心臓の部分からも
感じられます


「意識の外側の世界」は
感じられない筈なのに
意外と通じるルートがあるのです


しかし、これらは直接触れた時には
記憶も時間も飛ぶので
言葉で言及するのは
だんだんと難しくなります


意識の外側を経験しても
表現できるのは、その余韻だけですが
敢えて言えば
「沈黙と静寂」が近いように思います


大覚者ラマナマハリシ
基本的に2つの事を熱心に教えました


1つは、「私とは誰か」を問い続けよ
2つ目は、ただ「沈黙」です


1つ目は意識下の悟りの極意であり
2つ目は意識外の悟りそのものの提示
という事になります


ラマナの本などを読むと
彼は普通に喋っていたように感じますが
実際の彼の教えは、喋らない事
つまり、沈黙の中にいることが
とても多かったようです


「意識の外側の悟り」については
たとえ大覚者であっても
言葉ではなく
それを直接提示することで
弟子に直接体験を促していた訳です


そういった事情もあり
多くの覚者がよく弟子に向かって
連れて行けるのは悟りの手前までであり
そこから先は、独りで行くのだ的な話を
するのです
つまり、弟子自らが、独りで
直接体験をする必要がある訳です


ただ、覚者でもプンジャジのように
弟子の覚醒体験を聞くのが大好物で
言葉でのいろいろな表現を楽しむ人も
いますし


覚者ニサルガダッタのように限界まで
全力で表現を試みる人もいます
素晴らしいことです


そして
意識の外側への具体的なコンタクト
の方法ですが
これは、かなり個人差があって
普遍化するのは難しいですが
身体の心臓(ハート)の部分に
そのゲートがあるのは、皆共通で
あるようです


そして、それは一般的に考えるような
情緒的なハートではありません

 

このハートについてや
他のルートについては、また
あらためて詳しく書こうと思います