スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

欲望のままに生きる

ブッタが悟りを開いたあと
彼は、賢者や修行者が集まる
ベナレスの鹿の園に赴き
そこで初めて、知り合いの修行者達に
彼が獲得した悟りを説きました
そして彼らに賛同され認められたことで
覚者デビューをはたした訳です

 

彼がその時、初めて説いた内容は
「人生は苦である」というものでした


この「苦」の正確な意味は
元のパーリ語から考えると
「思い通りにならない感じ=苦しさ」
というニュアンスであるようです


そして、それには原因があり
それは私たちの妄執や乾きや煩悩
であるとしました


なので、ブッタはそれを制御し
人を理想的なニルヴァーナに導く
必要があると説いたのです


そしてその解決の方法として
八正道があり、それは
正しい見解、正しい思い、正しい言葉
正しい行い、正しい生活、正しい努力
正しい念、正しい集中を行う
ということだったようです


ここで言う「正」は、
誤に対する正という意味より
完全なという意味が近いようです


この教えを現代から見てみると
とても教科書的な堅苦しい感じで
具体的な要点は読み取り難いですが
当時のインドやネパールではきっと
これが合っていたのでしょう


なのでここでは、この最初の教えを
現代に合わせた感じで
スピリチュアル風に意訳してみようと
思います


―意訳―


人は、幸福になれます


本当の幸福(ニルヴァーナ)とは
マインドが興奮する幸福ではなく
想念と欲望が消えた状態であり
とても静寂で穏やかな状態です


しかし、現代では
その本当の幸福の中にいる人は
とても少数です
それに対して
私たちが何とか手に入れられる
マインドの幸福もありますが、それは
比較や依存により成り立っていて
とても危ういものです


そして現代の人々は
ブッタの時代の人が羨むような
安全、健康を持っていても
衣食住の心配がなくても
依然、苦しんでいます


例えば
あなたや他人の理想や想念が
あなたの欲望をアシストする場合は
欲望がさらに暴走し
ありのままの現実との乖離に苦しみます


また
あなたや他人の理想や想念が
あなたの欲望を否定する場合も
それ自体が葛藤となり苦しみます


二つとも思い通りにならない苦しみです


ただ、よく考えてみると
理想や想念は、亡霊の様なもので
何の根拠もありません
それが分かると
苦は、消えていきそうなものですが
なかなか、そう簡単にもいきません


身体に宿っている
食欲や睡眠欲や生存欲、性欲などは
本当にそこにあるものであり
幻などではありませんし
それを下手に否定すれば
欲は反って力をつけてしまいます


また、元々は想念であっても
承認欲や自己実現欲などの
すでに生まれてしまっているものは
一旦納得させなければ、消えることは
難しいのです


もちろん、もし出来るならば
欲望を過度にアシストする思いや
また、欲望を否定する
どこから来たかも判らない考え方を
取り払い、欲望を自由に解放し
浄化していいのです


ヒーリングやカウンセリングの
メンタルブロックの解除などは
これを試みているのだと思います


ですが、ここで
大事なポイントを押さえておかないと
どんな方法であっても
解放の試みは上手くいきません


そのポイントを押さえないと
マインドがマインドを、同じ次元で
弄っているだけになってしまい
その状態で無理やり欲望を解放しても
それは、ただの傍若無人な人か
若しくは、犯罪者になってしまうのです


そして、その大事なポイントとは
「自他の境界は無い」という気づきです

 

これに気づき、これが腑に落ちれば
あなたは「天」となります
世界そのもである「天」は
自動で想念の幻想性を見抜き
欲望をあるべき自然な形にします


結果、あなたは何をしようとも
間違いを起こす事はありません
欲望や願望があたかも自然の川のように
悠々と流れ出します


どうぞ、天の感覚に従い
欲望や願望を自由に
解放してあげて下さい


自動的に流れるものは流れ
納得し浄化され成仏し、その結果
あなたは、静かで理由のない幸福の中に
入ることが出来ます


もちろん
天という気づき自体も
直接あなたをニルヴァーナに誘う
強力な助けとなります


―意訳おわり―


かなりの超意訳になってしまいましたが
スピ的にはこんな感じだと思います


八正道という名の「完全な行動」は
細かく規律を守るというより
自他のない「天」を理解することで
達成できます


規律を守るというやり方は
素朴で素直な2500年前の人達には
有効だったのでしょうが
現代の人にとっては
少し困難であると思います


なぜなら
現代の人にとっての規律順守は
機械的な「ものまね」であり
本当に腑に落ちた感覚での
自動的な行動には感じられないからです


また、煩悩や欲望を滅するというのも
現代では、現実的ではありません
私たちの欲望を消すには
欲望自体をある程度納得させ
抱き参らせる必要があるからです


シッダールタは釈迦族の元王子であり
夏用、冬用、雨季用の宮殿を与えられ
宮殿では踊り子や楽団が彼の為だけに
宴を頻繁に開いていました
最高の教育と教養を身に着け
彼が17歳の時に麗しい妃と結婚し
子供も作りました


つまり、彼は、当時考えられる欲望は
既に全てやり尽くしているのです


そんな訳もあり、ブッタにとって
「欲望や願望を滅する」ことは
実現可能なことと思えたのかも
知れません


ブッタにとって、欲望や願望は
「もう済んだこと」だったのです


そして
現代の私たちの未完の欲望も
すべて済ますことは
当然、無理だと思いますが
その内の幾つかを済まし、終わらせると
いった正しい経験が必要なのです


これが少しでも経験出来れば
浄化や成仏が起こります、そして
その浄化経験が一つの突破口となり
本当の幸福に向かう際の勢いや力と
なるのです