スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

言葉とスピリチュアル日本人


私たちはいつも自分の意識の中にいます
通常は、そこから出ることは出来ません
「意識」が私たちの全世界なのです


そして、その意識は言い換えると
「言葉」であるとも言えます 
なぜなら、私たちは言葉なしには
思考し、認識することはできない
からです


その「言葉」の語源は
「言の葉」や「言の端」です
平安時代以前は「言葉」ではなく
単に「言」と使う事が多かったようです


そして、当時
この「言」は「事」と同じ意味
としても使われていました


つまり、「言」は「ありのまま」「事実」
という意味でも使われていた訳です
そしてこれは逆に
「言った事は事実になる」という
当時の言霊の考え方にも繋がります


ただ少しオカルトっぽい言霊の考え方は
平安時代あたりからの考え方であり
それ以前の古代の日本人は
ただシンプルに
事実をありのままに言葉にしていた
と考えられます


古代の日本人たちは
ありのままの「事」しか語らない人たち
だったのかも知れません


その人達は
嘘や妄想や空想ではない
ありのままの真言だけを使用していて


現代のように
ありのままの世界と言葉「想念」の間に
乖離がある世界とは、まるで違う世界
であったと予想できます


「言」は古墳時代飛鳥時代奈良時代
などから文学や歌の発展や
大陸文化の伝搬とともに
徐々に「ありのまま」だけではなく
空想や想念や架空の概念も含むように
なっていったのでしょう


その変化を切っ掛けに
「言」が、「言の葉」や「言の端」と
表現されるようになったのかも
知れません


そして、縄文時代の人達などが
本当に「ありのままの言」だけを
喋っていたのだとすれば
そこにはブッタの言う
「思い通りにならない苦しみ」や
「ありのままと想念の乖離」は
存在しなかった事になります


その当時は、皆が
「ありのままと争わない世界」
ナチュラルな悟りの境地」に
住んでいたのかも知れません


その証拠になるかどうか分かりませんが
縄文時代の人骨の化石からは
戦争や争いで亡くなった痕跡が
ほとんど確認されていないそうです
これは世界的に見て、本当に
めずらしい事であるようです


縄文時代は、2万年もの間
驚くほど平和な時代だった訳です


ちなみに世界最古の土器の破片も
漆器の破片も縄文遺跡から発掘されて
いますので、けして
ボーッとした穏やかで原始的な社会
ではなく、当時の世界の中でも
技術的にも高度に進んだ人たちであり
もしかすると精神的には
現代の人達より優れていたのかも
知れません


学校教育では縄文時代
竪穴式住居に住む原始人のような
イメージで教えていますが
それは、たぶん
天皇を中心に国家を作り上げるといった
明治政府の方針の名残りなのでしょう
大和朝廷以前に優れた文明が存在しては
当時は、ちょっと困る訳です


また現代では
日本人は無宗教であるとか
大多数が仏教徒であるとか言われますが
本当のところは、縄文由来の
自然崇拝、多神崇拝であると言えます


名もなき山の神、水の神、石の神
道具の神、太陽、動植物を無意識に
意識しています


つまり、全てを神として認識して
いる訳です


渡来の大和朝廷以降は、名のある神も
追加、上書きされていったようですが
本来、全ての「あらわれ」に
名もなき神を見るものたちが
縄文の末裔である私たちです


これは
私たちにとっては何気ない事であり
当たり前の事なのですが
実は、かなりユニークな事なのです


私たちが、この感覚を
他文化の人達に説明をしたとしても
ナチュラルに理解するのには
かなりの時間がかかると思います


というのも
自然崇拝&多神崇拝というのは
日本以外にはネイティブアメリカン
南米の少数民族位しか見当たらない
めずらしい価値観だからです


そして、実は
この「全てを神として認識する」
という感覚も自他を等価に扱う価値観
であり、ある意味
「ワンネスの境地」だと言えるのです


想念や妄想にあふれる現代ですが
縄文人の末裔である私たちは
ときおり
「ありのままと争わず」
「全てを神として認識する」という
民族の本性を思い出すのも
悪くないかも知れませんね