スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

「在る」とは何か

私たちも、世界も
今、確かに存在しています


これは
普段、当たり前のように感じている
「私が存在する」「世界が存在する」
という感覚です


しかし、よくよく考えてみると
「何もない・無」という状態の方が
シンプルで、安定していて
今現在の「色々と複雑なものが在る」
というのは、寧ろ不自然であり
そこには、必然性は無いように
感じられたりもします


また、それとは逆に
私や世界が存在している事実から
奇跡的な感じ、幸福な感じを
受け取るときもあります


とにかく、存在(プレゼンス)は
不思議な現象なのです


ではこの「在る」という現象の正体は
一体、何なのでしょうか?


この問いは、現状
哲学でも物理学でも心理学でも
未だ解決していない究極難問ですが
ことスピリチュアルでは
悟りへの大きな鍵となる
かなり重要な問題であるため
ここでは、あえて考えていきたいと
思います


―― 「在る」の正体 ――


私たちは、生まれてからずっと
継続的に自分が存在していると
思っています


しかし、実は
実際の私たちの生活の中でも
「存在していない状態」があるのです


「熟睡している時」「失神している時」
などが、それに当たります


その時「私」は存在しませんし
「世界」も存在していません
つまり、私たちは
生きている間であっても
存在と非存在を行き来している訳です


そして
その存在と非存在の切り替えの瞬間が
存在の秘密を知る手掛かりとなります


実は、このブログを書いている身体は
子供の頃、一度失神をした事があります
その失神は、お風呂に入っている時
限界まで長時間湯船に浸かっていようと
チャレンジした事により起こりました


その果敢な?チャレンジの結果、彼は
失神をして洗い場に倒れていたのですが
幸いにも、暫くすると
自然に意識を取り戻しました


最初に意識が戻った時
ただ、暗闇だけを認識し
次に暗闇の中で誰かの呼吸音だけが
聞こえている事に気づきました
それが自分の呼吸音と気付いた後
「自分は誰だっけ?」
という考えが浮かび、少し考えて
自分の名前や学年や設定を思い出し
その後、ようやく目を開けたのです


失神している時は完全な「無」であり
「非存在」の状態でしたが


「暗闇」と「それを認識するもの」
という2つのものが現れた瞬間に
「在る」という状態に変わったのです


つまり
「無や非存在」という「1つのもの」が
「2つに分離」した瞬間に
「存在」が起こった訳です


分割されていない「無や非存在」は
それに意識があったとしても
眼球が眼球を直接見られない事と
同じ理由で自らの「存在」を
認識することは出来ません


しかし、それが2つに分断された時
認識するものと、されるものとなり
「在る」が現れる訳です


存在とは「分断」であり
「分断自体」が存在なのです


ただ、正確な感触としては
実際に分断するのではなく
「分断したと思っている感じ」かも
知れません


それは、ちょうど夢のようなものです
夢の中では、無の世界の中で
想像だけで世界が作られていきます


夢の中では、色も触感も味も歴史も
疑うことなく存在するのに
それと同時に、それらはどこにも
実在しません


在るのに無いのです


実際の「在る」もこれと似ています
夢を想像して実体化させるように
分断を思い込むことで
現実と呼ばれるものを
実体化させているのです


そして、夢の場合も、現実の場合も
認識は出来ない「無や非存在」の方が
リアルな私たちの本体であり
普段の現実に現れる「存在」や
夢の世界は
それが認識出来たとしても
想像上の虚ろな幻影なのです


また、私たちは
この分断にうすうす気付いていて
その結果、正反対の「融合」に
憧れをもちます


これは「本当の家に帰りたい」という
衝動でもあります


そのため、人は
その衝動の代替行為をします
恋人と一つになれば、幸福を覚え
いい仲間に出会えれば、安心を感じ
自分の富や影響力が大きくなれば
喜びを感じます


つまり、融合し大きくなることが
衝動であり快楽である訳です


ただ、これは疑似行為です


融合し「私」が大きくなる程
分断も大きく確かになり
水面下では、孤独や苦しみの感覚は
強くなるのです


それに対し瞑想やスピリチュアル等の
「自我を薄くする」やり方は
結果的に他者も薄くなり
真の融合に近くなります


しかし、どちらのやり方であっても
「分断」を夢想している状態である
ことには変わりなく
影が実体に影響を与えられないのと
同様に、真我である非存在自体は
つねに安全で影響は受けません


そういった訳もあり
多くの覚者が
現世でどんな事があろうと
私はけして汚されないし
全く影響も受けないと言及したり


現代のスピリチュアルリーダーが
何があってもあなたは大丈夫だとか
言ったりするのです


ただ、それでも
自我を希薄化させるやり方の方が
真の自分への近道であるので
おすすめです


―― 存在からの自由 ――


そして、真の自分、本当の私たちが
なぜ「無や非存在」であるのかと言うと


それは、目は目を直接見られない理論
から推論をすると
私たちの本体というのは
私たちから「見えないもの」である
と推し量れるからです


私たちは
無や非存在や神や無限や永遠を
見ることが出来ません
ということは、それらが
私たちの目であり、私たちの本体である
可能性がとても高いのです


そして同時に
そのワンネスの非存在世界は
究極に安心できる我が家である
ことでしょう


それとは逆に
「1なる無や非存在」を忘れて
分離していると思い込んでいる時に
「在る」という幻が現れる訳です


「在る」は「分離の世界」であるため
その分離が、苦しみと孤独を生みます


悟りは
苦しみと孤独を解消することが
その役割です


つまり
私たちが、幻想を見破り
存在という名の分断から自由になると
苦しみや孤独は
元々無かったかのように消え去るのです


と言いますか、そんなものは
幻想である為、本当に元々ないのです


元々ないと知った時、人は
神に愛されている感覚や
祝福されている感覚をおぼえます