スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

神降ろしと瞑想

「神降ろし」は神道の極意だと
言われています


この「神降ろし」とは
大和朝廷以前より伝わるもので
政(まつりごと)や祀りの際に
神事などを通じ、人に神を降ろします


共同体にとっての
大事な意思決定時や、危機の時に
それを行い、言わば
短時間、強制的にある特定の人を
悟らせるものです


そして、現代でも
私たち日本人は、その神降ろしを
日常で体験しています


実は
近所にある、静かな神社に参拝する時
私たちはそれを、普通に体験しているの
です


鳥居をくぐる時、一礼し
清涼な参道を、静かに歩いていきます
拝殿の前で二礼二拍
願い事をして、そして祈ります


願い事を神に預けると
想念を手放した感覚になります


その後の数秒間
静かに息を吐きながらの
「想念のない祈り」が
神が降りる瞬間です


普通、人は、まさかその時に
神が降りているとは思わない為
「何だか清々しいな」程度にしか
感じませんが、実は
長い瞑想経験があったとしても
なかなか辿り着けないような事が
そこでは、起こっているのです


静かに息を吐きながら祈るのが
ポイントです


その時、清浄な空白の中で
時間が止まり、意識が消えるのを
体験するかもしれません


私たちが
「瞑想をして悟ろう」と思う事に比べ
神社の参拝という小さな神事の際に
それをする人達は
「私が神を降ろしてやろう」などと
考えることはありません


他の神事にしても


ただ神の為に場を整え
静かに待つだけです


綺麗な花々を飾り
果物を供え、香を焚いて
清潔で清らかな祭壇を用意するだけ
なのです


そのあとは、神次第であり
その時、人は神に全てを明け渡します
サレンダーしています


そして
明け渡して空になった空白に
神が降りてくる訳です


「神降ろし」は「瞑想」に比べ
とても効率的でスマートなシステム
だと言えるかも知れません


たぶん、1万年以上前からの
太古の叡智なので
洗練されているのでしょう


神事も瞑想も
降ろすものは同じです


ですが、瞑想の場合には
「瞑想を私がする」と思った時点で
それはとても困難になります


何故なら
想念や意図がない事が
「何かが降りてくる条件」だからです


意図という想念をもって
想念の無い状態を作ろうという
矛盾のある作業が瞑想なのです


どちらかと言うと、瞑想での悟りは
つよい意志や想念で
「悟り」を望んで望んでそして望んで
それでも辿り着けない絶望に出会い
諦め、真っ白の空白になったところに
やっと悟りが降りてくるという感じです


大変です


なので、解決策としては
神事の洗練された手法を取り入れると
良い訳です


そして、その方策とは
私たちが、瞑想をする時
瞑想が「降りてくる」と思うことです


「私」が瞑想をする訳では無く
「私」は瞑想が降りてくる為の
清浄な「祭壇」になるのです


それが本当のサレンダーであり
空(から)の器の感覚です


「祭壇になる」と言っても
最初は、なかなか上手くいかないかも
しれませんが


試行錯誤をしている内に
「何かが降りてきた感覚」が
必ず分かり始めます


ほんの少しでも
この感覚に触れる事が重要で
それを知ると


日常の色々な場面で
それが降りている事が分かります


また「私」が頑張って瞑想をして
「私が何かを掴んだ」という感覚が
少し違っていたのかもと思えます


降りてくるものは
「私のもの」ではありません
その時
私は存在しないのです

 

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