意識の変容体験を求める事は
「ある種の欲」であるから
あまり固執しない方が良い
などという意見もありますが
一度でも、その体験すると
頭だけで考えていたスピリチュアルが
「リアルで身近なもの」
「確信をもてるもの」に変化します
なので
これらの体験を求める事を
あまり遠慮する必要はないと
思います
意識変容の体験は、大きく分けて
2つの種類があります
1つは
割りと唐突に起こる、多幸感を伴った
「あ、わかったかも…」という
衝撃的なものです
ただこれは、少し時間が経つと
何が分かったのか、言葉では
説明できなくなってしまいます
ただ、その時の香りや信頼の感覚を
記憶することは出来ます
このタイプの場合
同じ体験は、二度と起こりません
もう一度起こる際は
まるで違う切り口で起こるのです
そして、2つ目の種類は
恩寵が降っている感覚や
光のベールに満たされているといった
静かな感覚です
これは繰り返し再現可能な体験です
「あ、またこれが来た」という感じで
何度も体験できますし
慣れてくれば、条件を揃えて
故意に呼び出すことも可能です
ここでは体験を
2つの種類に分けてみましたが
これらは、現れ方が違うだけで
基本的には同じものです
同時に起こることもあるので
あまり厳格に区別する必要も
無いのかも知れません
さて、ここからが本題になりますが
これらの意識変容を起こす方法は
どのようなものがあるのか
少し考えていきたいと思います
この意識変容を起こす方法も
実は2つあります
1つは少しハードなタイプで
「こころを破壊or麻痺」させ、その後
「深刻さを反転」させるというものです
少し例を挙げていきましょう
まず、宗教家が改宗する例です
ある敬虔な宗教家が、異教徒の集団に
捕まってしまいました
その宗教家はひどい拷問を受け
異教への改宗を迫られます
敬虔な彼はしばらく耐えていましたが
ある時、限界を迎え、信仰心が壊れ
異教に改宗してしまいました
その後、無事解放された彼は
今までの信仰心や信念という
固い「こころ」が無くなっても
なぜか
「何も変わらないこと」
「何も起こらないこと」
「何の問題もないこと」に
気づきます
つまり、彼は
こころの形というのは一つでは無かった
むしろ、心の形など無かった事に気付き
理由のない笑いが込み上げてきたのです
そして、その瞬間に
彼は宗派を超えて悟りを得たそうです
こころが壊れても
何の問題もなかった事で
こころ(マインド)の幻想性に
心底気づいた訳です
そして雲(こころ)が晴れ
太陽(真理)の光を浴びたのでしょう
似たようなことは
ワークショップなどで行われる
スピリチュアルワーク等でも
起こるようです
それらのワークは
自分にとっての一番嫌いな人物に
心からの愛を送るワーク
野生動物に成りきり
四足歩行で動き回りながら
吠えたり鳴いたりするワーク
面識のない参加者同士で
何の判断や価値観を挟まず
ただただ
心のこもったハグをし合うワーク
などです
どのワークも、はじめは
嫌悪感や拒否感が起こります
その時
照れたり、嫌々するのでなく
全力で取り組んでみると
自分の感情やプライドなどの
「こころ」が少し壊れた感触や
麻痺した感触を感じます
それでも、それを懸命に続けると
ある時、深刻さが反転し
何だか愉快な感じになるのです
上手く行けば
ここで軽い意識変容が起こります
これは一般社会などで
嫌な仕事に対し、プライドや感情を捨て
バカになったつもりで懸命に取り組むと
ある時急に
楽で愉快になったりするのと似ています
「一皮むけた」などと
表現する事もありますね
ただこれも慣れと耐性によりますので
最初は、ほんの少しだけ大変なことから
始めると良いのかも知れません
急に無理をすると「こころ」が
怪我をします
他にも、絶望や挫折や病気などでも
変容が起こる事があるようです
これらは
現実の変化そのものには意味がなく
むしろ「こころ」に形があることで
苦しみが生まれている事に気づく訳です
「こころの形」から自由になる
という事が、あまりにも衝撃的である為
意識が変容したように感じるのです
そして
こころの形から自由になり
こころが透明になるにつれ
雲が晴れたように楽になっていき
ありのままに寛げるようになります
これら以外にも
多くの事例があるでしょうが
その場合の変容成功のしるしは
「深刻さが愉快さに反転」したか
どうかという事になります
以上はハードタイプになりますが
ソフトに安全に変容を起こす方法も
あります
これは
ある程度、恩寵のフィーリングを
知っている複数の人たちと
瞑想会や会合などを開くやり方です
巷ではよく「悟ってるかも」と
思われる一人の人物のもとで
瞑想会や会合が開かれますが
あまり効率的ではありません
そこには、暗黙のうちに
師と弟子というヒエラルキーが発生し
役割分担が起こるからです
その時、人は
忠実に「弟子という役柄」や
「知りたいと思っている知らない者」
という役柄を演じてしまい
「悟るチャンス」があっても
それを謙虚に辞退するのです
また
「悟りは、誰のものでもなく
ある特定の人物に宿るものでもない」
という真理も逃します
これに対し
恩寵のフィーリングを既に知っている
複数の人たちと
(自分が既に知っている事を)
まだ気づいていない人たちとの
同列で対等な瞑想会や会合は
前述した会合とは比較にならない程の
パワーを持ちます
まだ会が始まらないうちから
強力な共鳴が始まる事もあるでしょう
会が終わった時には、皆が同列に
恩寵を知る人となっているかも
知れません
そして、皆が
恩寵を見ることが出来る眼
「ジャッジ無しの眼」を知る人と
なります
その視線は、その後
自分や他者の「こころの形」を
洗い流し続けるでしょう
このソフトで安全な変容の方法は
現代的で、たぶん新しいやり方であり
とてもお勧めです