スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

石ころの心


悟りにおいては
「ジャッジの無い純粋な認識」と
「私はいないという気づき」の
二つの要素が同時に必要となります

そして、この二つの要件を
同時に達成している状態を
私たちは、既に知っています

それが「在るという感覚」です


身体が在るという感覚
机が在るという感覚
喜びや苦しみが在るという感覚
世界が在るという感覚です

通常では
その「在るの感覚」のすぐ後に
「この現れは、良いものなのか
それとも悪いものか」というような
「ジャッジや裁定」をするマインドが
立ち上がるため、私たちは
その評価や属性ばかりに、注意を
向けています
しかし、それらの認識のベースと
なっているものは、とても純粋な
「在るという感覚」なのです


この「在るの感覚」というのは
ただ純粋に「存在」のみを感じている
ものであるため、そこには
ジャッジも評価も存在しません

机の存在を感じる時、それが
豪華な机か、または粗末な机か
などと評価する前に
まず、ただそれが「在る」と
感じているのです

「金装飾の机がある」の「在る」も
「廃材でできた机がある」の「在る」も
同じ「在る」である訳です
そこにジャッジや裁定はありません


そしてまた
「在る」には自他の区別も存在しません

「自分の身体や感情が在る」
という文脈で使われる「在る」と
「他人の身体が在る」で使われる
「在る」は、まるで同じものなのです

「在る」という観点から見れば
自他は、存在しない訳です


スピリチュアルでは
この「在るの感覚」のことを
色々な言葉で表現します

気づき・ありのまま・沈黙・空白・静寂
純粋意識・静止・映画のスクリーン

もっと色々とあると思いますが
より身近で地味な表現で言えば

「石ころ」の心のような感じです

または「無機物の心」のような感じ
若しくは、少しそれらしく言えば
「鏡の心」のような感じでしょうか

それは「現れ」には何の干渉もせずに
ただただ「現れ」を映すものです


たとえば
私たちが、動物たちに癒しを感じるのは
彼らが私たちをジャッジしないからです
そして、空や海に癒しを感じるのは
彼らが私達に対し、値踏みや裁定をせず
そして、自他の境界を持たない為です

逆に言えば、私たちの苦しみとは
ジャッジや想念や自他の分離が
原因なのです

動物や自然物は、私たちよりも
苦しみの原因の少ない
より「ありのまま」の世界に
住んでいる訳です


しかし、ありのままの世界から
投げかける彼らの愛を、私たちは
なぜか、物足りないと感じます

それは、彼らが
価値観や基準に照らし合わせて
私たちを高評価したり
私たちを特別扱いし、優遇する事は
けしてないからです
なので、マインドは不服なのです


彼らが投げかける愛は
マインドから見れば「退屈」であり
「あたりまえ」であり
意味の無いものです

もちろんこの「マインドの退屈」を
無理やり素敵なこととして
感じとる必要もありません

普通の人間世界はマインド中心で
動いているので、すなおに
その視点で幸せを探すことも
当然、ありだと思います

「済ませること」も必要なのです

しかし、マインドの茶番劇や不毛に
飽き飽きした者が、その先の「在る」に
興味を持つのです

また、マインドから見れば
ただの退屈に過ぎない
石ころや無機物の心のような
「在るの感覚」
この静かな感覚に、少しでも
「安心」を感じられるのならば
「救い」はすぐそこに来ています


そして、この「在るの感覚」を
よく感じる為の瞑想方法ですが

しきりに集中して
「在る、在る、在る」と意識をしても
あまり良い成果は上がらないでしょう
集中も意思もマインドであるからです

逆にリラックスする方が良いようです
頭の上に、石ころか茶碗が乗っている
つもりになり
その頭の上の無機物に成りきる感覚で
リラックスすると良いでしょう
視線はある一点を見るのではなく
全体を見るような感じです

頭の上にある石ころや茶碗の「心」に
成りきることが
実質的な「気づき」です

石ころや茶碗は
何のジャッジもせず裁定もせず
自他の境界も持ちません
私たちの普通の精神状態に比べて
やや独特に感じるその「安心感」や
「苦しみが遠のく感じ」が掴めたならば
もうしめたものです、一段目の悟りは
あなたのすぐ近くにあります


少し滑稽な感じになりますが
実際に、頭の上に彼らを乗せて
瞑想して見ると
より効果が上がるかも知れません