スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

無力な聖霊たち


スピリチュアル界隈では
波動という言葉がよく使われます

少し胡散臭い響きもありますが
これはこれで、なかなか
便利な考え方でもあります

また、使う人によって定義は
さまざまだと思いますが、ここでは
「波動」=「想念・こころ」として
捉える事とします


―波、波動、波形―


私たちの現実世界は波の世界です
まるで嵐の時の海面のように
いつも時化(しけ)ています

そしてまた、私たちは、常に
ある任意の波動と同一化しています

どちらかというとそれは
波形といった方がいいかもしれません

たとえばそれは
「母」という波形であったり
「誰それの彼女」という波形であったり
「名前」という波形であったりします

そしてその同一化は移ろいます

未婚の人の波形から
婚姻している者の波形に変わったり
臆病な人の波形から
勇気ある者の波形に変わったり
幸福絶頂の歓びの波形から
どん底の波形に変わったりとします

また、ある「気に入らない波形」に
固着したままの人もいるでしょう

そして、その変化や固着に翻弄され
それらに飽き飽きした人たちや
波形への同一化自体が
苦しみや悲しみの原因なのだと
気づいた人たちからは

「時と場合に応じて、様々な波形に
変化することが出来る「この私」とは
本当は、いったい誰なのだ」
といった疑問が生まれ始めます


―波から水へー


私たちは、時と場合に応じて
様々な波形に同一化します
そして
その「すべての波」に成れるものは
いったい何なのかと問う時

「それは、水なのだ」という答えが
割と簡単に、見つかります

その時、私たちは、頭では
「ああ本当の私は波ではなく水なのだ」
と理解する訳です

そして、「水」を思考や比喩のみで
理解するのではなくて
実際に、体感したいと思うようになり
私たちは、冥想を通して
想念や概念や感情という波を無くし
鏡面のような心の水面を探します

つまり、無心無我を目指すわけです

そうこうする内に
私たちは、やがて「波の無い凪の水面」
つまり、「水の境地」に接触するのです


そして、「本当の私」とは
水のように、形のないものであり
自他もなく、個人性の無いもの
全ての形を赦すもので
全てを愛するものであると感じます

具体的には
純粋意識や静寂であり
恩寵や愛だと感じる人もいます

そして、この時
私たちは本当の自分が見つかった事を
とても喜ぶ訳なのですが、やがて
「この水には何の力もない」という事に
気づき始めます

「水の境地」というのは真理であり
とても爽やかで至福なのですが
なぜか「とても無力」なのです

これが
「スピリチュアルで人は救われない
それは、現実逃避の為の
一時的な娯楽のようなものだ」と
言われる所以です

確かに
「水」ではなくて
同一化した「ある波動」というものは
毎朝、お弁当を作ってくれますし
また、苦しい時や悲しい時に
親身になって寄り添って
現実的に力になってくれるものも
また別の「同一化した波動」です

それに対して、形の無い「水」は
すべての波動のベースであり
すべての波形を赦すもので
本当の私ではあるのですが

ただ、微笑んでいるだけで
現実世界では何もしてくれません

この段階で、真理探究や
スピリチュアルというものに対し
「役に立たないな~」という感想を
懐く人も多いと思います

しかし、ともすれば挫折しそうな
この段階の人たちですが
実は、かなり良い所までいっています

この段階の人は、例えるならば
「生まれたばかりの聖霊」のような
ものです、彼女ら彼らは
神にも似た「聖なる光」なのですが
如何せん、赤ちゃんでもあるので
傷つきやすく力もありません

たぶん、私たちは
冥想などとは関係なく
幼子の時期を含め、人生の内で何度も
この美しい、無力な聖霊を経験しますが
あまりにも無力であるが為に
またすぐに、心の世界や波動の世界へと
戻っていったのだと思います


―水から海へー


ではなぜ
聖霊のような「水の境地」の人たちは
このような無力感に
苛まれるのでしょうか?

それは
水の境地を大切に思い過ぎてしまい
その結果
波を蔑ろにしてしまうからなのです

身体で例えるならば
水というのは「魂」なのですが
波は、「骨や筋肉」のようなものです

また、スピリチュアルでよく使われる

「顕現するものは、すべて幻想である」
「あなたのその思いは
単なるストーリーに過ぎない」
「想念やマインドというのは
浮かんでは消えるもの
まるでファントムのようなものだ」
などといったフレーズは
ある意味、「波」を蔑ろにしています

確かに、ここで言われているフレーズは
そのとおりであって
「水の境地」を見つける事に関しては
とても効果があります

ですが残念なことに
「波や波動」に対して
否定的なフィーリングを
与えてしまう為に、水と波の間に
隔絶を起こしてしまう訳です

波は否定されたことにより力を失い
水は波と離されたことにより
骨も筋肉もない聖なる魂だけの
虚ろなものになってしまいます

形の無い「水」は本当の私たちですが
「波」も水からできている訳であって
私たちの大事な「化身」であるのです
どちらも大切な訳です


この水と波の分離状態
これは困ったものです


なので、私たちは次の段階へと
進まざるを得ません

つまり
水と波を融合させ
「海へと昇華」する必要があるのです

これは
ノーマインドとマインドの融合
恩寵と生命エネルギーの融合とも
言い換えることが出来ます


そしてまたこれは、古来より
試みられてきた手法でもあるのです

たとえば
クンダリーニ・ヨガや
タントラや仙道などです

これらは、恩寵や真我と
想念よりももっと原始的な波動である
生命エネルギ―や性エネルギーとの
トータルな融合を目指しています

現代でも、この古来の方法で
試みている人達もいるようですが
私たちはどうしても、恩寵よりも
生命エネルギ―や性エネルギーに
意識が向いてしまう為に
成功させるためには
相当な誠実さと経験が必要なようです

なにせ
これらを融合させるためには
まず、何にもまして
圧倒的な量の恩寵が必要なのですから


そこで、私たち現代人が安全に行える
おすすめの技法を紹介しようと思います

「それは24時間冥想状態で
24時間、恩寵を感じながら活動する」
というものです


冥想は
一日に数十分間だけするものだ
ある時刻に始めて、一定の時間が経てば
きっちりと終わらせるものだ
といった既成概念は捨てて下さい

そんな決まりは
実はどこにもないのです

恩寵を感じながら仕事をし
冥想しながら会話をし
愉快さを感じながら怒り
静寂を感じながら笑い
恩寵の中で恋を語ってください

これは、始める前は
少し難しく感じるかも知れませんが
意外にできるもので
そこには色々な発見もあり
案外と、たのしいものです

例えるなら
恩寵という名のたっぷりのだし汁に
活動エネルギーという野菜を漬け込んで
美味しい漬物を作るような感じです

恩寵に浸かりながら活動する事により
粗野な生命エネルギーが浄化され
やがて恩寵本体にリンクされます

この時、私たちはようやく海となり
トータルを感じ、ちょっと驚くような
大きな変容体験を得るのです
そして、力のある聖霊へと羽化します


また、この技法は
しっかりと恩寵を感じる、もしくは
「水の境地」に留まることが
前提条件になりますが

現代では、そのような人は
大勢いるように感じます
また、出来ないと思っていても
実は出来ている人たちもいます

もちろん、少しおぼつかないとしても
やってみる価値は大いにあります ^^