スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

嫉妬の苦しみとこころ


私たちは男も女も
老いも若きも
嫉妬に苦しむことがあり

その嫉妬の独特の感触は
なんだか赤黒い炎のようで
妙に気持ちが悪く
とても息苦しいものです

かく言うこの身体も、たまに
そんな状態に陥ります

ただ、スピリチュアル的には
その嫉妬は
自分の状態を気付かせてくれる
ある種の「ギフト」
であるかも知れません


少し考えてみて下さい
私たちの心が
誰かに対して嫉妬を起こす時

その相手は、大きな幸運を掴んだり
大儲けしたり、大成功したりしている
訳ですが

もしも、私たちがその誰かの事を
事前にある程度、好意的に
高い評価をしていたのならば
そこに「嫉妬」は起こりません

いや、むしろ肯定的な憧れや
私も真似しようという気持ちが
起る程度でしょう


しかし
そこに嫉妬が起こっているという事は
私たちが相手を「見下していた」
ということを意味しています

自分より価値が低いと思われる者が
その価値に見合わない幸運を得たのだと
感じる時に、私たちの心には
「嫉妬」が起こるのです

醜く気持ち悪い感触が起こります

この気持ち悪さは酷いものですが
それもその筈で
この時の私たちの中には
スピリチュアルで一番大切なこと
「全てをジャッジ無しに見る」
という事象が全く発現していないのです

むしろそれとは真逆の行動をしていた
ということが露顕した訳です

つまり、嫉妬が起こる以前に
私たちは無意識のうちに
相手を値踏みし、価値が低いと
見下していたのです

心の中に湧き出る「嫉妬」という現象は
私たちが、心というジャッジする機械に
強く同化していた事を
心が醜く燃えて反応することで
私たちに教えてくれます

それは無心や無私の逆の状態です

つまり、こころの反応や
それに同化する事が
嫉妬の苦しみの元凶なのです


とは言っても

「こころ」というモノは
自分を査定し、他者を査定し
その優劣や損得を計算するものなのは
確かなのだけど

逆に、自分の安全を計算し
自分を優位な場所に運ぶための
防衛機構でもあるのだから

「ジャッジ無しなんて怖くて出来ない
もしそんな事をしたら、必ず損をして
周りから利用されるだけの
ただのアホの子になっちゃうよ」
という意見もあるでしょう


でもしかし、よく考えてみると
このような
「無心や無私が、いったい私たちに
何か良いことをしてくれるのか?」
というこの考え方自体が、損得を計算し
世界を自他に分割している「こころ」の
発言なのです


もし、無心無私の状態であるなら
この質問自体が浮かぶことがありません

そして、実際には
アホになる事も
利用されることもありません

なぜなら、無心無私の状態の人は
「自分のこころ」の主張を聞かないのは
当然ですが、「他者のこころ」の意見も
けして聞かないからです

こころに支配された他者の意見など
ほんの雑音ほどにしか感じませんし
雑音に従う無心無私の人はいないのです


一つの世界を分割し
損と得に分けるのが心です

一つの世界を分割し
自と他に分けるのも心です

嫉妬に限らず
苦しみの殆どの原因は
「こころ」にあります

しかしここで「こころは悪者なのか?
美しいこころも在るじゃないか?」
という意見も聞こえてきますが
この美しいこころの存在というのは
人類の壮大な勘違いであり
「光り輝く暗闇」
「聖なる性犯罪者」くらいの
矛盾なのです

私たちが
他人に美しい精神を感じる時は
その人のこころは無くなっているのです

こころが薄くなった時に
そこに美しさが現れ
理由の無い幸福すら現れます


嫉妬の苦しみは、私たちに
「こころの雲が濃くなっているよ」
「その雲は、君ではないよ」と
教えてくれています、そして今
「逆の方向に進んでいるよ」と
警告しているのです


確かに
無心無私の中に入るのは
怖さを感じますし、迷いもあり
大きな勇気がいるでしょう

勇気をもって飛び込んで行っても
有心と無心を行きかっている過渡期は
翻弄されることもあるでしょう

しかし、それが定着した時
その時、無心は
あなたやあなたの世界を、または
あなたや他者の存在しない世界を
いまだ経験したことが無いほどに
癒すのです