スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

「気分」は、私たちではない


死にたい気分
泣きたい気分
消えてしまいたい気分

天にも昇る気分
何でも出来る感じ

私たちは、いつも
そんな「気分」に振り回されています


気分が落ち込んでは、困惑し
テンションが上がり過ぎても
空回りして疲れます


私たちは、いつも
程よい「良い気分」を求めている訳です


そして、私たちは
気分さえ良いのであれば
その他の自分のあらゆる状態が
どんなにひどい状態であったとしても
快適であり、全く問題を感じません

それとは逆に
気分が落ち込んでいるのであれば
どんなに恵まれた環境の中にいても
不幸であると感じるのです

つまり、私たちにとっては
「気分」が最上位であって
「気分」に支配されている訳です


また、気分というものは
思考や感情よりも深層に存在していて
たとえ、思考や感情などを
浄化し終えた者にとっても
かなり厄介なものです

そして、その影響力の強さ故に
私たちは、この「気分」を
自分であると思い込んでいて
これと強く自己同一化し
実際以上に、これを強化させています


普通の私たちにとって
「気分」は疑うことなく自分です

しかし
スピリチュアルな視点で見れば
私たちの本体というものは
決して「気分」などではありません

ほんとうの私たちは
それとは、まるで関係の無いものです


なぜなら
気分と私たちが別物であるからこそ
気分が落ち込んだ時
ほんとうの自分が、その気分に
引きずられるような感覚を覚え
それに違和感や不快を感じるのです

そして、私たちが
自分の気分から自由になるためには
それを俯瞰し、自分と気分とは
何も関係ないという事を
感じ取る必要があります


ほんとうの私たちは
死にたい気分でも
消えてしまいたい気分でも
天に昇る気分でもありません

それらは
遠くに見える少し風変わりな雲の形や
耳障りの悪い風の音のようなものであり
自然現象なのです
それは、私たちではありません


また、だいたいにおいて
「分」の付く言葉には
怪しいものが多いです

自分・気分・身分・天分…

これらは皆、人をいいように化かす
「あやかし」のようなものです

例えば「自分」というものは
全体を勝手に二つに「分け」て
片方の部分を自と決める概念です
そして
「気分」というのも、勝手に
全体の気を「分ける」幻想である訳です

本来の私たちは
気分でも自分でも天分でもなく
気であり、全であり、天です


また、一般的な考え方では
「気分が良くなりたいのであれば
気分が良くなる為の方法を探せばいい」
というものもあります

しかし
「~になる為の方法」というのは
「こうしたらこうなる」といった
因果律や縁起の世界での話になります
これはブッダの言う迷いの世界であり
これらの法則世界の中に居る間は
「気分の宇宙」からは抜け出すことは
できません


私たちは「気分」という地平や
因果律の地平からは全く関連のない
立ち位置で、これを俯瞰しなければ
ならないのです

いい気分になるように努力するのでなく
気分屋にならないようにと
感情を抑制する訳でもなく
気分自体から自由になる訳です


そして
その気分から自由になるには
気分が落ち込んだことに対して
自分が感じる不快を
「不思議なことである」と感じて
その違和感をよく見つめると良いです

その違和感というのは
「本当のあなた」が気分とは別の場所に
存在している事の証拠なのです

落ちてゆくガラスのコップは
それとは別に認識する者がいるからこそ
そこに顕現し、不安なども誘発します

そして、あなたは
落ちていくコップを冷静に観察し
これは私ではないと、勇気をもって
喝破して下さい


それは、少し難しく感じますが
私たちの立つこの新しい地平というのは
案外と、心地のよい場所なので
きっと、あなたは気に入ります

そして、そこから見えるであろう
かつての「あなたの気分」は
懐かしい昔の蜃気楼のようにも
少し滑稽で微笑ましい風景にも
見える筈です


是非、あなたの「気分」と
全く関係のないスペースを
探してみて下さい
そこが私たちの本当の棲み家です