スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

この醜い世界はなぜ創られたのか


この醜悪な世界は、なぜ存在し
よりにもよって、私たちが
この苦しい世界の中で生きなければ
ならないのでしょうか

そこに神の意図はあるのでしょうか

この大問題を解決するには
ひとまず
世界が、醜いか美しいかというのは
置いておいて

そもそも
「この現実世界というのは本当に
存在しているのか?」という問題を
解くことが鍵となります


そして、この問題に対しての
スピリチュアル的な考え方は
主に2つに分けられます

1つ目はキリスト教的な考え方です

キリスト教の神学などでは、まず初めに
いまの現実世界は
「確かに、存在するものだ」といった
私たちが肌で感じるとおりの立ち位置
からスタートします

このキリスト教神学での考え方では
感覚的に在ると感じる現実世界の
存在理由をまず知ろうとして
過去に遡ってその原因を探して行きます

しかし、それを探していくと
探し当てた原因にも
それの一つ前の原因があると分かり
その連鎖を究極まで遡ると
そこには「最初の原因」がある
と考えます

そして、この「最初の原因」の前は
世界は「無」であったと考えます

なぜなら、そのように考えないと
原因を遡る旅は
永遠に終わらないからです

しかし、このように
最初の原因の前は「無」なのだと
結論を付けると、なぜだか
おかしなことが起こってしまいます

というのは、この「最初の原因」が
「無」から発生した事になっていまい
「虚無から有が生まれた事」に
なってしまうからです

これは論理的には、あり得ないので
神学の人たちは
この非論理的で不思議な現象が起こる
特異点には
「超常的な神がいたに違いない」と
考えるのです、そしてそれが逆に
神の存在証明になるから都合がいい
とも考えます

つまり
今の世界が存在するには、最初に
無から有が生まれる必要があり
それには、超常的な神が必要だ
という結論なのです

そして、神が世界を創った訳ですから
そこには神の意図や責任が付随する訳で
もしも世界が
酷い有様であったのならば
教会は、その説明に追われます


しかし、ここで覚えておくべき
スピリチュアル的に重要な点は
神の存在証明や創造の意図などではなく
このキリスト教神学の考え方の起点が

「世界は確実に存在する」

という前提から始まっている
という点です


そして、それに対して
インドの哲学や聖典の考え方は

「世界は、はじめ無であった
そして、今も無のままである」

と考えます

つまり
「現実世界は存在しない」
これが2つ目の考え方です


このブログでは
この2つ目の考え方を支持しています

この考え方はスッキリしていますが
これを支持した際に必ず起こる疑問
というものがあります

それは
「それならば、なぜ、いま現在
私たちは、世界が在ると感じるのか」
という疑問です

そして、それに対して
インド哲学やインドの聖典では
「私たちの心が、世界という夢を
見ているからなのだ」と説明します

たとえば

通常、私たちが寝ている間に見る夢は
そこに色や形や感触や意味や歴史が
ありますし、その中で涙も流し、恐怖し
激高し、幸福も感じます

夢を見ている間は
それらを「確かに在る」と感じ
そこが、唯一のリアルワールドです

しかし、その夢から覚めると
それらの世界はどこにもありません
痕跡すら全くありません

つまり、私たちが見る夢の世界は
「確かに有るのに何処にも無い」
という特徴がある訳です


そして
私たちが現実だと思っている
目が覚めている間のこの現実世界と
寝ている間の夢の世界は
まったく同じであるのだと
インド哲学聖典は言うのです

通常の私たちは
この現実世界を、何の疑いもなく
とても確かな世界だと感じていますが
深い睡眠中や、失神した時など
いや、もしかすると死亡した時にも
この確かに思える現実世界は
まるで最初から無かったかのように
跡形もなく忽然と消えてしまいます

つまり
夜に見る夢と現実世界には
「確かに在るのに何処にも無い」
という点において
さほどの違いはない
といいますか
むしろ、全く同じなのです

ブッダ
この「在るのに無い」という特徴を
色即是空と表現しますし
この現実世界という夢から
目覚める事を解脱と表現します


また、現実世界から覚めて
「世界は存在しなかった」と
気づくことが、ある意味
神との遭遇なのです

そして
その神は、ただの「無」ではなく

全ての可能性や次元が無限にある状態が
あたかも、無のように見えるもの
なのだと考えます

またこれは
人格神では、ありませんし
意志も意図もありません
ですが
実際に冥想から得られる感触に
とても近いものです

 

そして、肝心の
「世界はなぜこんなに酷い状況なのか」
という疑問ですが

このブログが支持している
インド哲学聖典の方をベースに
解説します


まずこの覚醒した後に気づく
「無」という神は
意図も意思もありませんし
言葉も決して喋りません

ですが同時に、全てを内在するがゆえに
見る者の視点次第では、神や世界は
「何とでも、どのようにでも」
表現される事が許されているのです

つまり
あまりにも全てであるが故に
まるで無であるように見えてしまう
神に対しては
全ての疑問や現実が許されていて
それに対するどのような
答えや解釈もまた、そのすべてが
とりあえず正解なのです


昔、とある取材チームが
ドキュメンタリー作品を撮影する為に
原始的な生活をする部族のエリアに
飛行機で訪問をしたそうです

部族の人達は、取材チームに
「どうやってここまで来たのだ」
と尋ねました

取材チームは
「あそこの荒野に止まっている
飛行機で空を飛んできた」
と言ったそうです、ですが

部族の人たちにはその方向をよく見ても
飛行機がまるで見えなかったそうです


現実世界は、こころの投影なので
部族の人たちの「飛行機の無い世界」も
取材の人たちの「飛行機のある世界」も
それぞれが、取り合えず正解なのです

これは日常でも起こります

心の中に、ある概念を持たない人には
それをどんなに分かり易く説明しても
まるで違う言語で会話しているように
話が通じないことがあります
この時
二つの心から投影された真実は
二つ存在し、そこには
接点が無いのです

少しオカルト的な話では
UFOや幽霊なども、観察者たちが
同じ時間、同じ場所に居たとしても
見える人もいれば見えない人もいます

これも
それぞれが取り合えず正しい世界ですが
同時に全てが、幻想であると言えます

そして、これらの現象は
「こころ」や想念によって
引き起こされています

こころが、世界を存在(限定)させ
物理的なモノとして表現します

そしてこれが
世界が醜い原因であり
世界が美しい原因でもあり
楽しさの原因でもあり
苦の原因でもあります


世界を美しくするためには
美しい風景を限定するこころを
持つ必要があります、そうすれば
美しい世界を見ることが出来るでしょう

ですが、やはりそれもフェイクなのです

美しいのですが
限定的であり、不完全です
一つの正解ですが、幻想です

地獄も、正解であり幻想ですが
天国もまた、正解であり幻想なのです

カルマのある世界も、無い世界も
ともに正解で、同時に幻想です

輪廻転生のある世界も、無い世界も
ともに正解で、同時に幻想です

どちらも確かに在るのですが
どこにも無いのです

夢の世界と同じです


例えるならば、現実世界というのは
無限の広さの画用紙に
こころという名の絵筆で
それぞれの人が30cm四方の落書きを
ごちゃごちゃと同時に描いている
ようなものなのです

描かれたそれぞれの絵は
重なる部分もあり
離れている部分もあります
また、その絵は、心にとって
真実のように見えますが

真の世界に比べれば
とても限定的で、作為的で
ごく部分的なものです


そして、本当の世界
つまり
「どんな絵が描かれることも許す
無限の画用紙」を見るためには

画用紙に絵を書かない状態で
真っ白な画用紙を見る必要があります

つまり、描こうとする意図無しで
何かを限定する意図無しで
見る必要がある訳です

現実的な表現で言えば
「ジャッジ無しで」
「価値判断無しで」
「自他の境界なしで」見ます

つまり「こころ無しで」
世界を見る訳です

私たちは
「こころから覚める」必要があるのです

「こころ」という絵筆は
夢そのものであり
無限という名の神から見れば
有限や限定そのものです

私たちが、こころの描いた絵に
固執していたならば
何を描かれることも許してくれる
無限の画用紙の存在は目に入りません


こころ無しで見る「無限の画用紙」は

想念が立ち上がる前の
純粋意識のようでもあり
沈黙や静寂のようでもあります

そして
この静寂や純粋意識を感じている時の
心地よい波長のようなものが
恩寵と呼ばれるものであるのだと
私たちは、やがて気づきます