スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

心-①  美しい心 醜い心


私たちは「こころ」という言葉の
音の響きを、聞くと
普通、良いイメージを持ちます

物語や映画などでも
「美しい心」を持った主人公が
劇中で大活躍をしていたりします
そして、私たちはそのことに対し
全く違和感を覚えません

それは、多くの人々が
心とは、本来よいものである筈だ
美しいに違いないと思っている証拠です


そしてその認識は、驚くことに
私たちを苦しめる原因となっています


感性が豊かで、自分の心を
公正に観照する人であればある程
自分の心の「情けなさ」や「弱さ」
「醜さ」を感じてしまいます

そして、そのようなやさしい人たちは
自分で自分を責める事になる訳です

その結果
自分のことが嫌いになってしまい
自己否定してしまう人も多いと思います


しかし、この時の前提条件である
「こころとは美しいものだ」という
考えは、本当に正しいのでしょうか?


結論から先に言ってしまえば
「美しい心」というのは
この世界の中では
何処にも存在しません

やさしい人格者の持つ心も
美しい女性が持つ心も
かわいい子供が持つ心も
「こころ」と名の付くものは
すべて「醜い」のです


なので、私たちは
自分の心の醜さに悩む必要は
全くありません


仏教では「こころの世界」は
「分別の世界」であると言います

現代的に言うならば
「こころ」というのは
勝手に決めた価値観を基準に
自分が「得」をするように働き
「優越」するように働き
己の領域が拡大するように働きます

つまり、心や分別というのは
自分を守るための、心理的
生体保護プログラムのようなもので
醜いというよりも
ただ、プログラムである訳です
心とは、元々そういうものなので
自分を責める必要などありません


しかし、世の中には
美しい心を持っているかのように
行動している人達が沢山いるじゃないか
と思う人もいるかも知れません


確かにそのとおりです、大勢います


そして
その美しい行動をとるその人達は
二つのグループに分類されます

一つ目のグループは
「善行をするのは素晴らしい事だ」と
いう価値観を持っている人達

二つ目のグループは
心が希薄になっている人達、あるいは
無心の人たちです


一つ目の
「善行をするのは素晴らしい事だ」と
いう価値観を持っている人が
もしも、真摯に自分を内観する人ならば

「私は、この価値観ゲームのルールで
高得点を取りたいだけなのだ、結局
自分の為に行っている打算なのだ」と
解ってしまう事でしょう

この人たちは、想念に囚われているため
真に美しい人という訳ではありませんが
社会にとっては、立派な人たちです
しかし、この人たちでさえも
仏教では、「分別智」と表現され
迷いの世界にいるのだと言われています


二つ目のグループの人たちが
本当に美しい人たちだと言えるでしょう

「美しいこころ」というものは
存在しませんが
「こころ」が、希薄になればなる程
人は、美しくなれる訳です

それの究極は、無心であり無私です
これを仏教では「無分別」と言います


そして、私たちは
分別のグループと無分別のグループに
いつも、明確に分かれている訳でも
ありません

時には「こころ」という
損得プログラムのようなグループに
身を置き、またある時には
自他や想念という「分け隔て」を越えた
無心の美しいグループに
所属します


そして、重要なことは
私たちは、9割方の時間を
「こころ」という
分別の世界に滞在している
という事実です


スピリチュアルでは
1割の「無心の領域」の話ばかりを
しがちなのですが
実は、現実的な観点で考えれば
9割を占める「こころの領域」の方が
量的には、より大事なのです

1割の部分で幸せな気分になっても
9割で落ち込んでは意味がありません

ピンポイントを攻めて
大部分を扱わないことが
スピリチュアルがダメなところ
でもあります


次回
この肝心な「こころ」の世話の仕方
について記事を書きたいと思います