スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

退屈な冥想・甘美な冥想


もしも、知り合いの子供達に
「冥想は何のためにするもの?」と
尋ねたならば、彼らは
どのように答えるでしょうか

少し怪訝な顔をするかも知れませんが
たぶん
「無になる為にする」とか
「悟る為にする」とかの答えが
無邪気に返ってくると思います

そして、その答えを聞いた
スピリチュアルに興味のある私たちは
「これは少し単純で浅いのでは」と
考えがちです


しかし、意外にも
この答えは、大正解なのです
大人が語るには
少し恥ずかしくなるような
単純さですが
まさしく正解です


昨今の冥想を指導するような場所では
冥想の目的をあまり伝えません

なぜかと言えば
先に到達先のイメージを示すと
冥想をする者が、それに捕らわれて
しまうからといった理由であったり

また、もしかすると
指導者たちが
冥想とは言葉にできない神秘性を
持っている筈だから
軽々しく語ってはいけないものと
思っているからなのかも
知れません


しかし、実のところ
真理というのは、子供でも思いつくほど
簡単で単純なものなのです


つまり、冥想の目的とは
自分の本来の姿は「無」であると
確かに感じ取ることなのです


また、最近の冥想の指導では
「浮かんでは消える想念たちを
ただ見つめていると良いよ」と
よくアドバイスされます

確かにこれは
「私は想念ではない」という
大切な事を気付く上では最適です

ですが、如何せん退屈であり

その時にあらわれる想念たちは
入れ替わり立ち代わり登場し
一向に消えないために
「無」に触れる事は、出来ません
そして、楽しくもありません

その退屈さゆえに
その先の見えなさゆえに
ここで足踏みしてしまう人も
きっと多いのではないでしょうか


では、一気に「無」まで持っていけて
何度も体験したくなるような
「甘美な冥想」というのは
ないものでしょうか
そして、それがあるのならば
それを体験するには
どうすればよいでしょうか?


実は
私たちは、この「甘美な冥想」に
よく似た体験を、日常の中で
頻繁に経験しています

それは、睡眠の導入の時です

それも、夜に考え事をしながら
睡眠に落ちていく時にではなく

休日の朝などの
二度寝」の時の導入です

この時、私たちは布団の中が
あまりにも気持ち良くて
とろけるように二度目の眠りに
落ちていきます

あれだけ執着していた想念が
まるで嘘のように希薄になり 
それへの興味が無くなっていきます

何もない快楽に向かって
微笑みながら落ち込み
そして、その中心に触れた時
痺れるように記憶が飛びます


これは一見、日常の
ありきたりの現象のように感じますが

稀に起こる会心の冥想、つまり
「想念に興味が無くなる冥想」
「何もないものに触れる冥想」が
できた時の感覚と
とてもよく似ているのです

違いがあるとすれば
意識がクリアであるかないか
聖なる雰囲気があるかないか
くらいです


通常の冥想の時に
これと似た状態を再現するのは
出来ない訳ではありませんが
かなり難しいです

ですが、逆に
この二度寝の時に
「冥想をしてしまう」のは
意外に容易いでのす
何より気持ちが良く、楽しいです


皆さんも「二度寝」の際には
この甘美な冥想をぜひ試してみて下さい

難しいことではありません、ただ
意識をクリアに保つだけでいいのです

少し後ろめたくもある二度寝の快楽が
聖なるものに昇華され
気づきの起こりやすい状態に
変容します

一度経験してしまえば
その冥想の感覚に確信が持てるため
普通の冥想の時にも再現できる筈です


冥想の時でも、普段の時でも
「私は無であったのだ」と
確かに感じる事は、何にも依存せずに
「幸せになる」という事です

これは
「己をもって拠り所とする」といった
本当の意味での自由です
(この己は真我であり無です)

そして、たとえ
たった一人で世界に存在したとしても
祝福を感じるという事です
もっともその時には
「一人・孤独」と言う概念さえも
消えていますが