スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

十牛図 スピリチュアル解説


十牛図とは
今から約1000年ほど前の
中国の北宋時代の禅僧が作成したもので
「悟りに至るまでの10段階」を
簡単な絵を用いて表現しています

ここでは、この図をより現代的に
スピリチュアルテイストで解説して
行きたいと思います
(特に七枚目からが重要です)

 


一枚目は、尋牛(じんぎゅう)です

f:id:sisimura:20211023030102p:plain

この絵は
童子が「何か」を探している様子が
描かれていますが
彼はまだ、自分が何を探しているかも
判らない状態でしょう

この絵に描かれている「童子」は
「私・マインド」を表現しています

また、絵の周りに描かれた「円」は
「意識」を表現しています

 


二枚目は、見跡(けんせき)です

f:id:sisimura:20211023030036p:plain
この絵では、牛の足跡を発見します

禅僧であるこの絵の作者は「牛」を
「仏の教え」や「仏性」として
表現していると思いますが

「本当のこと・真理」として捉える方が
現代の私たちには、よりしっくりきます

そして、この「見跡」という絵は
童子(私・マインド)が
何やら世の中には周知されていない
隠された「本当のこと」があるらしいと
他者から聞いたか、若しくは
自分でそう感じる出来事などが
あったことを、示しています

 


三枚目は、見牛(けんぎゅう)です

f:id:sisimura:20211023030009p:plain

童子が、ブッタの教えやイエスの教え
または、近代の覚者の教えに
少し触れたことを表現しています

 


四枚目は、得牛(とくぎゅう)です

f:id:sisimura:20211023025943p:plain

色々な教えを試し悪戦苦闘している様を
表現しているようです

 


五枚目は、牧牛(ぼくぎゅう)です

f:id:sisimura:20211023025913p:plain

童子が、自分と相性の良い教えを
深く勉強している様を表現しています

 


六枚目は
騎牛帰家(きぎゅうきか)です

f:id:sisimura:20211023025840p:plain

この絵は、勉強していた「牛=真理」に
深く納得し、その教えや真理を
知的に「自分のもの」としたことを
表現しています

 


七枚目は
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)です

f:id:sisimura:20211023025815p:plain

この絵からが、スピリチュアル的に
重要な展開となります

忘牛存人、この絵は
「私が、真理を諦めること」
を表現しています

童子は、念願叶って
牛(本当のこと)を手に入れました
しかし、「本当のこと」を
知識的に、理解したとしても
あまり救われた感じがしないと
徐々に感じ始めます

その満たされない原因を探していくと
自分の獲得した「本当のこと」とは
単なる概念や想念に過ぎず
「悟りそのもの」ではないと
気が付く訳です

また、数多の覚者が
「想念が消えた時が悟りだ」と
言っている事が、本当であるならば
自分が「教えという名の想念」を
後生大事に持っている間は
悟ることなど永遠に不可能だという事
にも気が付きます

例えるならば
「教え」とは「悟りを指し示す指」です
そして、今までは
その「指」ばかりに注目し
熱心に観察していたのです

確かに、指の形や細かい特徴には
とても精通したかも知れません

しかし
肝心の「悟り自体」を見る為には
その指から目を離さないといけない事に
気がついた訳です

結果、マインド(童子)は
悟るという概念(牛)を、諦めるのです

 


八枚目は
人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)です

f:id:sisimura:20211023025750p:plain

この絵は、サマーディのような体験を
表現しています

前回の絵では、牛(教え)というのは
意識に浮かぶ概念や想念だと知り
その結果
「教え」(牛)を手放しました

そして、今回は
童子(私)さえもが
牛(教え)と同じような
想念であったのだと、気が付きます

実は「私」というのは
根拠のないただの設定であり
単なる概念であったのです

そしてその幻想(私)を、手放します

「私」という想念が薄くなるにつれ
他者という想念も薄くなります

想念全般から興味が無くなり始めます

そして、前回
教えという概念が消えていたところに
今回、自他という概念の消失が起こり
それに連動して、想念やジャッジという
幻想も消えるのです

結果的に、その場所に残るものは
純粋な意識を表している「円」です
これはスピリチュアルで言うところの
「気づき」であるとも言えます

その気づきは、私の気づきでもなく
他者の気づきでもありません
ただ「気づき」なのです

 


九番目の絵は
返本還源(へんぽんかんげん)です

f:id:sisimura:20211023025721p:plain

この絵は、自と他と想念が消えて
「気づき」だけがある世界を
表現しています

私も他者もいない
想念もジャッジも無い世界は
ただ、意識(円)の中に現れる
「ありのまま」の世界である訳です

ただただ、ありのまま
源に戻り、平安が訪れたのです

 


最後の十番目の絵は
入鄽垂手(にってんすいしゅ)です

f:id:sisimura:20211023025613p:plain

この最後の絵は
覚者となった元童子が町に降りてきて
人々に教えを説き、助けている絵
であると禅宗では説明していますが

本来の入鄽垂手の意味は、手ぶらで
ふらっと町中に入ってくるというもので

意識という一つの世界の中で
自由に遊んでいるという表現である
と思われます

もちろん、その時に
人々を救うのも良いでしょうし
そうしなくても良いのです
まったくの自由です

ただ、この時の彼の人称は
自でも他でもなく「天」であるため
どんな行動をしたとしても
それは、世界の為となるでしょう


ここまでが
十牛図のスピリチュアル視点での
解説になります


そして、実は
近年のスピリチュアルでは
その先があります


それは
この十牛図をよく観察してみると
気づくのですが、この十枚の絵には
その最初から最後まで
共通して描かれているものがあるのです

それは「円」です

この円は、「意識」や「在る」を
意味しており、最初から最後まで
不偏であるかのように描かれています

しかし、近代の覚者たちは
この「不偏の在る」にも違和感を示し
それすらも超える事を試している
ようなのです

それは、悟りというより
もはや、神の領域です

そこには、まだまだ
旅をする為の前人未到の不思議の世界が
静かに広がっているようです

そして、もしかするとあなたが
そこに最初の足跡を残すのかも
知れません