スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

疎外される悲しみ


周りの人に評価されない憂鬱
周りの人に受け入れてもらえない悲しみ

その程度に差はあっても
このような苦しみを抱えている人は
多いと思います


そんな人たちは
私は「虐げられている者」であり
私を受け入れない彼らは「虐げる者」
だと、感じるかも知れません

しかし、本当は
「虐げる人」と「虐げられる人」は
同じ地平に立っていて
大した違いは無いのです

何故なら、両者とも
「仲間を作り楽しくやることは
素晴らしい事だ」という価値観を
持っているからです

この価値観を持つことは
「仲間以外は疎外するよ」という宣言や
「仲間外れは不幸だよ」という宣言と
同じなのです

これは
とても原初的な価値観です


たとえば
小学校などでは、自然にグループを作り
それ以外の人を排除したりします
そして、やがては
そのグループの中心的な子も
何かのきっかけで排除されたりもします

ひどい時には、順繰りで順番に
排除が行われることもあるようです

まったく殺伐とした行為ですが
たぶん、小学生たちのこの行為は
この行為の「無意味さ」を学ぶ
ためのものであり、本来は
進化の為の学習なのでしょう

しかし
殆どの人たちは
その学習を修了することが出来ずに
死ぬまで続けています


そして、大人になっても
修了できない私たちは
知り合いで集まっては
そこに居ない人の悪口を言う
などといった遊びに
心ならずも、興じている訳です

くだらない事だと判っていても
なぜか、やめられない癖のように
それに興じてしまう人も
いると思います

また逆に、気の合う仲間といる時に
とても安らぎを感じる人もいるでしょう
しかし、これもまた同じことです


それらは一つのコインなのです

仲間と馴合うよろこびと
疎外される苦しみは表裏一体の
関係にある訳です

たとえ、立ち回りが上手くて
疎外されることを
上手に回避できていたとしても
それは
幼年期の学びを修了できない事
コインを手放さない事と
同義となります


その点
立ち回りが下手な人は幸運です

例えば、もしそこに
真に恩寵を理解している神父が
いたとしたならば
「疎外されている者は幸運です
なぜなら神にとても愛されている
訳ですから」と言うかも知れません

つまり、その疎外されている人達は
投げても裏面ばかりでる
不良品のコインを持っているので
容赦なく捨てることが出来る訳です

くだらない世界から
いち早く離脱できます


どうか
価値観や概念を手放して下さい
コインの片面だけ手放すことは
出来ません、丸ごと手放すのです

周りの人達が信じている価値観に
合わせる事や
仲間と一緒にそれを楽しむことが
良いものだという概念
周りの人たちに認められないことは
不幸だという概念

これらは
幼年期の学びの教材であり
もはや、必要はありません

必要に応じて、コインを
利用する事はいいのですが
それに夢中にならないで下さい

それらから自由になることが
ほんとうの自由です


そして、さらに踏み込むならば
友達や家族や恋人という概念も
自分や自我という概念も
同じように幻想です

私たちは
このコインの表面(喜び)に依存します
そして裏面(苦しみ)を恐怖します

依存(喜び)をもたらすものは
全てに裏面があるのです

なので、私たちは
友達にも依存せず
家族にも依存せず
恋人に依存せず
そして
自分にも依存しないで
生きる必要があります

これらの概念という名のコインは
夢の中にでてくる色々な物達と
何ら変わりがありません
勝手に作られた概念です
あるように見えて
実はそこには何も無いのです

そして
それらの幻想に依存しなくても
綽々として生きる者というのは
何にも依存していないが故に
本当に自由で幸福です


では、その幸福な者は
何者であるのかと言えば

それは「何者でもない者」なのです

「何者かである」という事は
自らを概念で限定する事であるので
それは「依存する者」なのです


本当の私たちは
「何者でもない者」です
それは、依存と無関係である為に
それ自体が幸福であるのです

具体的に言えば、それは
沈黙であり静寂であり空白です

この沈黙や静寂は
一見、空疎に感じますが
それらの味わいは、例えるなら
蝶に羽化した後の花の蜜です
花の蜜は、羽化する前には
理解しがたく
食べ物とさえ思えません

概念や価値観から発生する
苦しみや悲しみというのは
昔食べていた苦い葉っぱの味です
やがて
遠い昔に見た蜃気楼のように
忘れていくでしょう


そして、私たちは
厭世的な孤独を感じるどころか
世界の人々や、周りの人々を
私の花壇の中にある美しい花である
かのように感じるでしょう

また「私は何者でもない」と
理解した者の周りには
同じように理解した蝶の仲間が
集まるかも知れません

そしてまた
集まらないかも知れません

もはや、どちらでもよいのです

 

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