スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

個人性が薄くなった感覚

スピリチュアルを追求している人たちや
瞑想をしている人たちの中には


最近
「自分の個人性が薄くなっているな」と
感じてきている人たちも多いのでは
ないでしょうか


常時薄い訳でなくても


自分の個人性の濃淡が感じられる
その濃淡が変動しているのがわかる
といった感じの人の方がより多い
のかも知れません


個人性の濃淡の周期の中で
それが淡い時は


自分の身体が透明に感じたり
皮膚が霧のように曖昧に感じたり
身体が羽根のように軽く感じたり
世界の中で身体が自動で動いているように
感じたり、これらの感覚を複数同時に
感じたりしているかもしれません


また、そこに
世界が自分の家であるかのような
総天然色の力強さを感じられることも
ありますが、自我の防壁の薄さからか
淡い儚さも感じる事もあるようです。


そして逆に個人性が濃い周期には


身体が重く感じたり
不安や焦りを強く感じたり
孤独感を強く感じたりする事も
あるでしょう
ただ、悪い事ばかりでもなく
他人と競争し、頑張って勝った時などは
強い達成感や勝利感を味わえたり
とても濃い味の征服感を味わえたりします


スピリチュアルに興味のある人が
この濃淡の二つの感覚を
行き来していると
やはり「個人性の薄い状態」が
好きになるようです


個人性の濃い状態が、少し幼く
少し単純に感じられて来るのです


そしてそれは素晴らしい事で
もう確実に何かが始まりかけています


この感覚に興味を持つ人に
お勧めの瞑想があります


それは臥禅(がぜん)です


これは横になってする瞑想です
座禅や歩禅のような緊張感はなく
ひたすらリラックスできるので
個人性を薄めるためには最適です


寝る前のベッドの中でもいいですし
ソファーで横になってでもOKです


横になって静かに個人性を
外してゆきます


名前を外し
性別を外し
職業を外し
肩書を外し
人間関係を外し
記憶を外します
自他の境界を消します
あなたは何者でもなくなり
世界に溶けてゆきます


寝ながらの瞑想はダメという
厳格な人もいますが
ブッダも愛用していた瞑想なので
特に問題はありません


この瞑想をしていると
通常の個人性が濃い状態よりも
個人性が薄い状態の方を
どんどん好きになっていきます
その方が気持ちいいのですから
当然な訳ですが


しかし
個人性が薄くなってくると、当然
軽やかで気持ち良くなって来るのですが
少し失う体験もあります
そして、新たな課題も与えられます


少し失う体験というのは
「大いなるものが少し感じ難くなる」
といったものです


スピリチュアルを探求していて
個人性が濃い時や
個人性が薄くなる過渡期には
外側から聖なるものに見られている
という感覚を受けることが
たびたびあります


これは祝福の光のように感じられる
「気付かれている」体験です


自我や個人性が濃い時は
自分で自分をジャッジしていて
自らを苦しめている状態なので


あなたを常に認識している
静寂や沈黙(大いなるもの・見えないもの)
が醸し出す無ジャッジ性が
鮮烈に愛しく感じられるのです


自我の強力な西洋人達が祈ったりすると
自我の薄い日本人などよりも
「神のビジョン」を見易いのも
同じ理由に因ります


それは救いの光に感じます


実際、救いの光であることは
間違いありませんが
自我が薄くなるにつれて
この光は、少し感じ難くなります


それはあなたと「大いなるもの」との
違いが少なくなるためです
けして悪い事ではありません


それが身に付いたという事です


そしてまた
個人性が薄くなると
自分は身体ではなく意識世界全体だと
感じられるようになるため


意識全体が「在る」ということを
強く感じるようになります


分離された自我のある意識
つまり、普通の意識状態は
評価や損得という尺度で
(それが無ジャッジであったとしても)
大いなるものから
見たり見られたりしていますが


統合された一つの意識では
尺度に意味が無くなるため
「在る」という視点で
大いなるものから
見たり見られたりします


いままでは自と他との関係や
自分の幸不幸が興味の中心でしたが
それが統合され一つの意識になるので
その一つの意識は「在る」ということが
気になり始めるのです


そして
「在る」や「存在」や「認識」は
世界最高の難問であり
世界最高の不思議です


この課題が課せられます


ただ、個人性が薄くなった後なので
哲学などとは違い、肌で触れるように
この課題に取り組めます


学年を一つ進級したので
祝福先生の世話が少し減って
新学年に合った課題が与えられる
といった感じです