スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

瞑想していない時、気づきは起こる

スピリチュアルに興味があって
苦しい現状から解放されたいとか
至福や祝福を感じたいと
思っている人の多くは
よく瞑想を試しています


しかし、瞑想中
特に静かに座る瞑想中に
「気づき」を得たと思うことは
あまり無いのではないでしょうか


むしろ
重要な気づきは、瞑想中ではなく
何気ない日常で起こるなと感じている人
が多いようです


そして、それは正しい感じ方です
何故かと言えば


瞑想する時には
「瞑想しよう」というマインドや
「何かに気づこう」と思う
強い意図が常にありますが
日常では、それに関しては
ノーマインドであるからです


「いいえ、私は瞑想中に
至福や平安を感じたことがあるよ」と
言う人もいるかもしれませんが


それは、悟りや気づきに囚われない
フィーリング自体を楽しむような
おおらかな瞑想をしていたから
かも知れません


また瞑想には
テストやチェッカーのような
機能もあるので


もう既に救われている人や
その時にスピリチュアル的に
いい状態だった人が
そのことを確認できたのかも
知れません


昔の覚者たちには「瞑想で悟った」と
言われている人たちも多くいますが


昔の修行者は基本的に24時間
何日間も何年間も瞑想をしようとします
しかし、24時間何日間も瞑想状態が
続くわけがないのです
いつかはその緊張が途切れます


そして、そのマインドの緊張が
途切れた瞬間が逆にチャンスなのです


この時
瞑想と言う濃厚なマインド状態から
ノーマインド状態に移ります
厚い雲間から晴れ間が顔を出すのです


そして、昔の修行者も
この時に悟っていました


現代でも、瞑想していない日常で
重要な気づきを得たり
「もう悟れない」と諦めて
緊張の糸が切れた時に悟ることは
多いようです


悟ろうという意図が消えた時に
悟りが現れ
瞑想をしようという雲が晴れた時
気づきが現れます


ということは逆に
悟ろうとも瞑想しようとも思っていない
スピリチュアル的ノーマインドの日常は
実は
悟りや気づき、祝福や恩寵の宝庫で
あるのです


世間には稀に
スピリチュアルに興味はないのに
自他の境界が薄い天然の覚者のような
人達がいますが
彼らは、この日常の甘露を
一番味わっているのかも知れません


そして勿論、天然の覚者だけでなく
普通の自我の境界を持つ私たちも
日常で悟りや気づきに出会うことは
できるのです


その方法は
「自分のこころの色調」を
絶えず見つめることです


ここで言う「こころ」は
マインドの意思や思考ではなく
「感情」を指します


日常の世界で色々な事が起こるたびに
私達のこころや感情は
色調を変え、光り方を変えます


自分が愛されていることが判るような
出来事が起きれば
それは、暖色で光るかもしれません


怖いことや不安があれば
青くなって光を無くし


怒ったり嫉妬をすれば
赤黒く光るかも知れません


この感情の光は、日常生活の中で
「自分(幻想)」に対する評価や
優遇や冷遇、損や得に応じて
変化しますが
それは日常では当たり前の事なので
良いとか悪いとかの判断なしに
ただ
それぞれの光の美しさを観賞します


私達は、自分にとても興味があるため
この観賞は意外に簡単にできますし
色々な事で色調を七色に変える心は
見ていても楽しいものです


そして
このイルミネーションの観賞を
続けていると、稀に
イレギュラーが起こっていることが
分かるのです


それは、不思議な発光です
「理由のない嬉しさ」や
「懐かしいものを
思い出したような嬉しさ」
「原因が分からない爽やかさ」


自分が優遇された訳でも
得をした訳でもないのに
こころが発光するのです


自我とは無関係な発光です


こころのイルミネーション観賞を
少しの間でも楽しんでいれば
たとえ観賞する事を忘れたとしても
イレギュラーの発光には
自然に気づくようになります


そして、ここに肝心の
気づきや宝物がありますので
是非、楽しみながら調べてみて下さい


マインド(こころ)というのは
思考や意思や感情で出来ていますが
その中で「感情」はスピリチュアル的な
ハートと重なっている唯一のパートです


自我でありながら非自我と少し
リンクしているのです


理由も原因もなく発光するのが
ハートな訳ですが、その時
自我の雲が薄くなっているのです
そのことを知ったならば
逆に、ハートの色調を整えることで
宝物や気づきに会いに行くという
応用技もやがて出来るようになります


この日常の方法は
瞑想よりも楽しく効率的に
宝物を探す事ができます