スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

アダムとイヴ 心身脱落


このブログでは
悟りにおいて、大切なものは
「ジャッジの無い視線」と
「私はいないと知る事」だと
たびたび紹介しています

では
「ジャッジの無い視線」というのは
普段の生活の中では
どのような感じで起こるのでしょうか

ここでは、その具体的な例を
少し挙げて行きます


まずは
アダムとイヴ症候群のような例です

皆さんは小学生くらいの頃に
偶然、異性の友達と二人きりに
なってしまった事はありませんか

秘密基地で友達たちと
待ち合わせをして
何かの都合で、他の子供たちが
来られなかったとか

学校の飼育係の仕事のために
誰もいない所で、二人きりで
長い時間を過ごしたとか

この時、運が良ければ、二人は
ある特殊なゾーンに入る場合があります
それは
無人島で二人きりになったような感じや
アダムとイヴになったような感じです


というのは
小学生の子供たちも、私達と同じように
通常は、周りから
強い価値観を押し付けられています
それは
「異性の友だちと仲良くするのは
かっこ悪いとか、恥ずかしい」とかの
価値観です

この時、まずその価値観が脱落します

通常は、その価値観から外れると
周りからはやし立てられたりしますが

「世界には二人だけしかいない」
という特殊な感覚の中では
その価値観を強制する存在が消失し

「仲良くなってはいけない」
という概念が脱落します
その結果、二人は、不思議な親密感を
感じ始めるのです


そしてまた、同時に
「比較や評価」も脱落します

大勢の子が存在するいつもの世界では
「この子はあの子より可愛い」とか
「この子はあの子より勉強が出来る」
とか
「この子はあの子より足が速い」
といったような比較や評価
つまり、「ジャッジや値踏み」が
常に発生しますが

「二人だけの世界」では
他の子供たちという比較対象が
消滅するために
それらも脱落するのです

その時、二人は
お互いの「ありのまま」に
初めて触れ合うことが出来ます


この時二人は
ジャッジ無しの視線で見つめ合い
語り合うことが出来ます
そして、幼く無垢な彼らは
自他の境界すら薄くなるのです

その結果二人は、自分達を包む空間を
濃厚で密度の高いものの様に感じたり
風景が、ゴッホの絵画のような色彩に
感じたりして、とても不思議で
心地よい状態になるのです

それは、特別な時間です


しかし、残念な事に
その限られた時間が、終われば
この小さなアダムとイヴも、まるで
それらの出来事など無かったかのように
普通の小学生に戻る訳です

しかし少なくとも、その限られた時は
幼い二人が、祝福された時間であり
そこには恩寵が降りていたのです

また、この体験は
禅で言うところの「心身脱落」に
少し似ています

「私はそんな経験はないよ」と
思われる人もいるかと思いますが
忘れているだけかも知れませんし
これからも、起こりえます
恋愛の初期の二人などには
似たような現象が起こるのです


そして、普段の生活の中での
「プチ心身脱落」の他の例としては

新しい趣味や仕事を始める時
海外旅行をする時、または
「当たりの瞑想会」に出た時などが
挙げられます

新しい趣味や仕事を始める時や
海外旅行の場合
あなたは
他者をジャッジする知識も基準も
持っていません
そして周りも同様に、あなたの事を
評価する知識も基準も持たないのです
その結果、短い時間ですが
あなたは、あなたを演じる必要もなく
何者でもない自由な人になれる訳です

また、「ジャッジ無しの視線」を持つ
複数の人たちが集まった幸運な瞑想会は
その複数の人達に引きずられて、皆が
この視線や波長にシンクロする為に
そこには、恩寵が降ります

色々な例は、ありますが
故意に「ジャッジの無い視線」や
恩寵を楽しむには、やはり
趣味や旅行や恋愛よりも
瞑想会の方が、やや向いているでしょう


そして、最後になりますが
「ジャッジの無い視線」の素晴らしさを
一番感じられる例は

私たちが劣等感に苛まれている時です

私たちの「劣等感の苦しみ」というのは
私たちが、己の持つ価値観で
自分自身を裁くことで起こります

例えば
人は孤独であってはいけないとか
痩せていなければならないとか
健常者でなければいけないとかの
概念や価値観です

劣等感に苛まれている私たちは
その基準を満たしていない自分を
自分で責め、裁いて
落ち込んでいるのです

そして、そんな状態の私たちが
その価値観など全く気にしない人
そんなことは全く考えたこともない人と
たまたま、接触
「その視線」を投げかけられた時
私たちは、本当に救われるのです
そんな価値観など幻想なのだと
その視線が無言で告げます

ただ、たまたますれ違っただけでも
そこに「ジャッジの無い視線」があれば
その場所には、浄化と恩寵が降るのです


このブログを書いているこの身体も
そのような見ず知らずの人たちに
何度となく救われています

その救ってくれた人たちも
その人の人格が
いつも「ジャッジ無しの視線」を
宿しているという訳では無いのですが
少なくとも
その時、起きることは本物です


そんな訳もあり
このブログを書いているこの身体は
「ジャッジ無しの視線」に憧れ
皆さんに勧め
自らもそうでありたいと
願っているのです

多くの人が、この視線を持つ世界
そんな世界が、訪れたならば
どんなに素晴らしいことでしょう