スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

無になりたい

夜、寝る時に
もうこのまま起きなくてもいい
「無になってしまいたい」と
思う事はありませんか

その時、大抵は
憂鬱な気分を伴っています

「無に親しみを感じる」こと自体は
悪いことではありませんし
寝る時に、無の瞑想のような感じに
なるのはとても良いことです

ですが
マインド由来の憂鬱を伴うのは
あまり良い状態ではありません


このように「憂鬱で無になりたい」時
自分の身体をよく観察してみると
みぞおちの辺りからお臍にかけて
固く硬直していることに気づきます

ここは
第二第三チャクラと呼ばれている辺り
自己存在や感情や信念
グラウンディング
関わっているとされる部位です

チャクラという言葉自体は
超常的なイメージが強すぎて、あまり
適当とは思えませんが、ここは確かに
そのようなエネルギーの感じられる
部位であることは間違いありません

その証拠に、大抵の人は
精神的に追いつめられると
胃の辺りが固くなり
逆に、覚悟を決めた時には
腹の安定を、感じると思います


そして
スピリチュアルが好きな人たちは
この部分、みぞおちやお腹の部分が
弱い人がとても多いのです

弱いというよりも
ハートや眉間や頭頂のあたりの
エネルギーが発達している為
みぞおちやお腹のエネルギーに
あまり興味が湧かず
無関心でいる場合が多い訳です

このようなスピの人達は
何かの問題が起こった場合
自分の得意なエネルギー
ハートや眉間や頭頂からのエネルギー
のみを使って、問題解決しようとします

そして、その時のその人たちの雰囲気は
妖精や精霊のようになります
それは
清い感じ、聖なる感じではありますが
地力がなく、フワフワした感じです

逆に、一般の人たち
マインドの世界に長けた人達は主に
みぞおちやお腹のエネルギーを
好んで使います
それは、感情や信念やマインドの
エネルギーです

その人たちの印象は
スピリチュアル派の人たちから見た場合
地に足の着いた堅牢な姿に見えますが
同時に、本当の魂の宿っていない
中が空洞な鎧人形のようにも見えます

それはちょうど
オズの魔法使いのブリキの木こり
のような感じでしょうか

妖精や精霊は聖なる繊細なエネルギー
ブリキの木こりは
俗的で力強いエネルギーです
どちらが良くて、どちらが悪いという
ことはありません

なぜなら、私たちは
どちらのエネルギーも必要としている
からです

「憂鬱で無になりたい」時の私たちは
実は、精霊症候群になっていて
ブリキの木こりエネルギー
つまり、みぞおちとお腹に宿る
少し粗いエネルギーが不足している
訳です

また、この時
スピリチュアル派の人たちにとっては
トラップのようなものも発生します

私たちは
自然や愛や動物や繊細なもの
を愛する傾向にあり
逆に、俗的なもの、虚飾、感情
粗いエネルギーを嫌う傾向に
あります

ただ、その傾向が
俗的なものを、極端に嫌う価値観や
マインドとなってしまい
そのヘイトのジャッジや基準が
新しいステルスなマインドと
なってしまうのです

その結果、そのマインドが
自分自身を苦しめます

これが、憂鬱の正体のひとつです

スピな人も俗的なエネルギーを
全く持っていない訳ではありません

このステルスなマインドは
そのエネルギーを否定し
抑圧するのです

そのような時、苦しい時には
我慢をしない、少し奔放になる
などの生き方を心がけて
抑圧されたエネルギーの解放を
してあげて下さい

みぞおちやお腹の固さや苦しさが
楽になります


また、あまり好きでないエネルギーを
無理やり好きになる必要は
勿論ありませんし

自己肯定、信念、マインド、感情などに
過度に自己同一化する必要も
ありませんが

そんなエネルギーたちも
ジャッジ無しに優しく認めてあげ
「聖・俗を超えた立ち位置」から
それぞれの欲求を
自然に解放させていると
どちらのエネルギーもあなたの味方と
なっていきます

それは本物の寛容です

そして、本当に無ジャッジになれた時
意外にも、俗的なものが少し好きになり
積極的に楽しめるようになっているかも
知れません

そこには
聖なる印象を身に纏いながらも
なんの屈託もなく俗世間を楽しむ
そんな力強いあなたが生まれるのです

それは十牛図の最後の絵のようでも
あります


もう亡くなっていますが
本物の覚者のフーマンのワークでは
はじめ
思考や感情やマインドを俯瞰する
「本物の中心」のようなもの
「純粋な認識」のようなものを
知覚できるように弟子に教えます

それをハートに降ろし融和させ

そして最終的には
腹に降ろすように教えたそうです

 

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