スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

悟りの極意はすでに開示されている

多くの人たちが、多くの事で
苦しんでいますが
苦しみを浄化することは、実は
とてもとてもシンプルなのです


そのシンプルな方法とは
「苦しんでいる人を消す」ことにより
「苦しみが消失する」というものです


苦しんでいる人が居なければ
苦しみは存在できません


「苦しんでいる人を消す」とは
苦しんでいる「私」という区切りが
実は幻想であったと見抜くこと
苦しんでいる人はいなかったと
知ることです


つまり「悟る」ということです


悟りとは
「私はいなかったし誰もいなかった」
と知ることだけです


ただ、それだけなのです


昔は、修行者が自分自身で核心を
見つけ出せるように、グルは真理を
段階的に伝えたりしていたようです


また、悪い例では
自分たちの教えを権威化する為に
中々その核心を伝えなかったり
勿体ぶったりしていたことも
あったようです


ですが、今の時代は、少し調べれば
すぐに核心にたどり着きます
分かっている人達であればあるほど
勿体を付けずに、さらっとそれを教えて
くれるでしょう


つまり
現代のスピリチュアル好きな人達の
傍らには、いつも
「私はいない」という極意が
既に当たり前のようにある訳です


それなのになぜ
多くの人は苦しいままなのでしょうか


それは
スピリチュアルに興味のある人でも
その殆どの人たちは
一般の人と同じように
「私」の幸福を求めているからです


「私」が幸福になりたいのです


むしろ、「私」が幸福になれそうだから
スピリチュアルに興味がある訳です


それなのに、そこに
「私の消失」を勧められる訳ですから
「私が幸福になりたいのに
私がいなくなったら意味がない!」
という事で、最後の頃になると
無意識に拒否反応がでます


そんな訳で、良い所まで行っていても
肝心の悟りに踏み込まないでいる人達が
とても多いのです


太陽を回る惑星のように
悟りの周りをグルグルと周回している
人達も多くいます


まあ、当然といえば当然ですね


たとえば
「私」が名探偵となって
苦しみの原因という犯人を捜していて
いよいよ後半の大詰めになった時
いきなり「君が犯人だ!」と言われれば
「えーっ?」となりますよね
そんな感じです


そしてまた
「私が消える事」自体にも
恐怖を覚えているのかも知れません


悟ることは「生きながらに死ぬこと」
とか「自我の自死」とかと言うことも
ありますし、ちょっと怖い感じです


しかし本当は
この領域を怖がる必要は
まるでありません
生きていながらの悟りは
実際には、もう少し優しい感じなのです


身体も残りますし、心も残ります
感情も残りますし、怒ることもあります
そして、恋だってします


ただ、その身体も心も感情も恋も
「それは自分ではない」と
知っている感じ
自他の境界の「区切り」が幻想だと
気づいている感じです


これは例えるならば
飼い主と可愛い飼い犬の関係に
よく似ています


飼い主が「真我」で
かわいい飼い犬が「自我」です


そして悟る前は、飼い主が、なぜか
この飼い犬(チロ)と同一化した状態
なのです


愛犬を可愛がり過ぎて
少し頭が朦朧としているのか
飼い主が、愛犬「チロ」を自分だと
思いこんでいます


チロは
散歩の時、電柱の匂いが
気になって仕方がなく
郵便屋さんが来た時は
本気で腹が立って吠えまくり
近所の犬のココちゃんにフラれた時は
ドッグフードも喉を通らず
病気になるほど落ち込みました


その時
飼い主は、チロの怒りや悲しみや
喜びを、自分の事として受け取り
飼い主の認識でそれを強化するので
チロの怒りや苦しみや喜びを
実際の何倍にも感じます


「犬の世界=自分の世界」
になってしまっているのです
これが心身と同一化している時
悟っていない時の苦しみです


そして、飼い主が
「あっ、自分は自分のことをチロだと
思っていたのか!」と
勘違いに気づくと、悟る訳です


そうすれば
正常な飼い主と飼い犬の関係になります
チロが少々吠えても、妙な行動とっても
落ち込んでも、飼い主にとっては
全てが愛らしく映ります


チロのエネルギー自体も
飼い主がシンクロして強化する事も
ないので、静かになります


チロは近所のココちゃんとも
純粋なエネルギーとして恋をします


飼い主の認識がシンクロして
「フラれたらどうしよう」とか
「嫌われたらどうしよう」とかの
余計なエネルギ-を強化しませんので
恋は、上手くいきますし
たとえ上手くいかなくても
チロはさほど気にしません


チロには苦しみも怒りもありますが
そのエネルギーがただそこにあると
飼い主は感じるだけであり
それは、愛おしくもあり
けして深刻ではありません


チロとは、私達が今現在
同一化して大事にしている
「身体・心・感情・思考」です


「私はいない、誰もいない」と
分かった後でも
私ではない「身体・心・感情・思考」は
存在し、それ自体が
楽しくやっていくのです


むしろ
本来の正常な形になりますので
どんな感情も(怒りや悲しみでさえ)
適度で美しい光に感じます


「チロ」は、悟りの後でも
楽しくやっていくことが出来ると
分かって頂けたと思います


では、肝心の飼い主=真我とは
何者なのでしょうか


それは
一人称でも二人称でも三人称でも
ないもの、男でも女でもないもの
属性もなく、意図も意思もないもの
それは、沈黙と静寂です


これは、はじめ空疎に感じますが
だんだんこれの魅力は分かってきます


そして、これは
どこにでも遍在していて
どこにも無いものですが
悟る前であっても
何故か心臓(ハート)のあたりで
感じられるのです