スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

Open your eyes(愛を開く)

近所に幼馴染の女の子がいました
彼女とは小学校、中学校と同じで
同じクラスになったこともあります


彼女との関係は
小説や漫画に出てくるような
ロマンティックなものではなく
ごく普通の知り合いといった感じです


ただ、話などをしていると
なぜかとてもリラックスしてしまう
野原に咲く花のような
優しい女の子でした


二人は、別々の高校に進学したため
当然、もう学校で会う事もなく
近所でもあまり見かけなかったのですが
高校二年のある時
地元の駅でばったり会ったのです


その時の彼女は
中学時代とは打って変わって
とても派手な装いでした、まるで
夜の接客業のお店にいるお姉さんが
お店での衣装そのままで出歩いている
といった感じだったのです


男子高校生は、少し驚いて彼女の顔を
覗き込みましたが、そこにはいつもの
幼馴染の優しい表情がありました
すると、彼は服装の事などはすぐに
気にならなくなりました


彼は、軽く挨拶をすると
「帰り? じゃあ、一緒に帰ろう」と
言いました


並んで家に帰る道すがら
彼女と話をしていると、彼はやはり
とてもリラックスした感覚を覚えます


いろいろな話をしましたが
彼女が高校を辞めたことを聞くと


彼女を心配する気持ちと
自分が妙にリラックスしている事の
相乗効果もあってか


手に職をつけた方が良いだとか
おしゃれが好きなら美容師はどうだとか
君は優しいから看護師なんてどうかとか
男子高校生特有の無神経さで色々と
喋ったのを覚えています


10数分くらい歩いたでしょうか
お互いの家はもう少しです


二人は最後の曲がり角を曲がろうと
していました
すると、道の少し先に
男子高校生の母親が
近所の奥さんと立ち話をしている所が
見えてきたのです


男子高校生が
「あっ、やば、お袋だ」と呟くと
女の子は
「別の道で行こう」と言いましたが
彼は「いいよ、このまま行こう」
と言って
女の子を母親の前に連れていくと
立ち話に夢中だった母親に声を掛け
彼女を母親に紹介しました
「かあさん!美咲ちゃん(仮)」


彼の母親は、彼女を知っていたので
「あらー」といって
嬉しそうにしていましたが
母親の立ち話の相手のご婦人は
「まーっ」と言って
目を丸くしていました


今の時代なら
少々変わったことが起きたとしても
誰も驚きませんが
当時の感覚では
制服を着た普通の高校生が
やけに派手な装いのお姉さんを
連れて歩いているのは
いささか奇異に見えたのです


その後
二人は普通に話を弾ませ
お互いの家に帰りました

 

そして次の日
男子高校生が学校から帰ると
母親が不思議がるように
「あんた美咲ちゃんに何かしたの?」と
たずねてきました


どうやら
美咲ちゃんのお母さんが、泣きながら
電話で、感謝の意を伝えてきたらしい
のです


男子高校生は、その時は
進路を心配したから感謝されたのかな
と思っていました


それから暫くして、彼はもう一度
美咲ちゃんと遭遇します


彼の父親の買い物に付き合って
外出をした帰りに
地元のファミリーレストランで食事を
取っていた時のことです


男子高校生はガラの悪い3人組の
女の子達が、近くの席からこちらを
ニヤニヤと見ていることに
気がつきました


3人組は、中学時代の
不良の女の子達でした
まあ、不良と言っても可愛いもの
なのですが…


彼は、彼女たちと面識があり
3人の中には美咲ちゃんもいました
美咲ちゃんも不良っぽい表情をして
います


彼は、彼女達の表情から
「高校生にもなって
パパとお買い物かよ?」と
思われているような気がして
いい気分ではありませんでした


しかし
これは彼のバイアスであって
ほんとうは
「旨そうなの食ってんじゃん
あたしも食いてー」と思って
ニコニコしながら見ていただけ
かも知れません


ただ、彼は同時に
「美咲ちゃんは、友達に合わせて
無理な演技してるなー」
とも感じていました


彼は、それ以来
幼馴染の彼女を見かけていません


これは、とても個人的で
まったく地味なエピソードなのですが
今になってみると
いろいろと思う所があります


まず、感謝の電話ですが
彼女の母親もそうですが
美咲ちゃん自身も何かしらの
感謝の気持ちはあったと思います


ただそれは
進路の心配をされたことへの
感謝ではないでしょう


彼女は17歳で、高校を辞め
派手過ぎる格好をして
不良のような演技をしていました


今の価値観では
少しも悪いことではないのですが
たぶん当時は、色々な場面で
外側だけで判断をされ
不本意な値踏みをされ
ジャッジをされ
大きなストレスを
感じていたと思われます


そこに能天気な幼馴染が現れ
外側をほとんど気にしない態度を
取ったため、その時、偶発的に
ストレスが解放されたのでしょう


この能天気な幼馴染は
スピリチュアル的に
「ジャッジ無しの瞳」を
持っていた訳でも、ましてや
開眼していた訳でもありません


彼は、演技をしていない「素の彼女」を
知っていただけです


ただ
判断され批判される彼女の状況と
彼女の素を知っている者の態度という
真逆の状況が偶然に重なって
そこに疑似的な「ジャッジ無しの瞳」が
現れたのではないでしょうか


男子高校生が
その視線を持っていた訳ではありませんし
疑似的な発生なので
彼は、それに接触できていません


つまり「ジャッジ無しの視線」は
彼女だけが目撃したことになります
そして
彼女の母親も間接的にそれを目撃
したのでしょう


それが彼女たちを少し癒しました


またあるいは、彼女本来の光が
男子高校生を鏡として反射し
彼女が、彼女自身の本性を目撃したの
かも知れません


何にせよこれは、偶然の状況から
彼女の前だけに「神の視線」が
現れた訳ですが
たとえ何から発生したとしても
現れてしまえば本物です


このような疑似的な視線の発生は
この例だけではなく
実は、いろいろな所で
いろいろなものを「よりしろ」として
起こっていると思います


しかし、重要な事は
「神の視線」は勘違いや偶然だけから
生まれる訳ではないという事です
確信的に最初から本物として
存在することもあるのです


そして
スピリチュアルを探求する人は
この恒常的な「ジャッジ無しの瞳」を
是非とも、手に入れてほしいと思います


勘違いや偶然から発生するのではない
「本物の視線」を手に入れて下さい


本物の「ジャッジ無しの瞳」を持つ事を
「開眼」と言います


これは単に人物の素の性格を見抜く
というようなものではありません
性格も、心の特徴や傾向ですら
事後的であって幻想のようなものです


その視線は「源」を見ます
或いは、鏡として「源」を反射します


その「源」とは
人間の中心にある個人性の無い光と
原初に発生した個人性の薫り(魂)の
2つです


太陽が、意図も判断も無しに
数多のものを照らすのにも似ていますが
この視線は、太陽が照らさない影の部分
さえ照らします


そして、この視線で見ることが
本当の意味での「愛する」という事に
なるのです


これを持てば
あなたが、ただ居るだけで
周りが救われていきます


また、他人を見るこの視線は
自分を見る視線でもあります
結果、自らも救われるのです
「すでに愛されていた」と
知ることになるでしょう


この視線を持つ瞳は
「自他の境界の幻想性を知る事」や
「沈黙と静寂」とも
もちろん深く関係しています


ですが
個人的な嗜好を言ってしまえば
むしろ、それらの二つの事以上に
愛着を感じます


「Eye」を開くことは
「愛」を開くことと同義であり
人間に一番近くて一番重要な境地だと
考えます