スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

悟りへの科学的なアプローチ

近代・現代の心理学や脳科学では
「悟り」に対する理解が
徐々に進んでいるようです


それらの中の面白い考察の一つに
「人間の意識が行動を起こそうと
思い立った時
その時の0.数秒前~数秒前には
すでに身体が先に行動を起こしている」
というものがあります


皆さんも聞いたことが
あるかも知れませんね


つまり、私たちは
確かな自由意思を持っていて
その意識や意思は
「他の何よりも先に存在する」
と感じていますが
実は、その意識や意思というのは
身体が自動的に動いた後の
「事後的な辻褄合わせ」の現象に
過ぎないという訳です


では、何が行動や思考を
決定しているのかと言うと
身体(脳の無意識)が自然現象的に
機械的に決定している訳です


この考察に関係した
とても面白い実験を一つ紹介します

 

脳の疾病に「てんかん」というものが
ありますが、昔は
その疾病の治療のために
脳の外科手術をしていたそうです


その手術は
右脳と左脳をつなぐ脳梁という部分を
切除するもので、この手術をすると
てんかんの症状が消えるそうです


ただ、この手術をすると
右脳と左脳の情報伝達する部位が
無くなってしまうので
「完全に分離した二つの脳を持つ人」
になってしまうようです


今から紹介するのは
この手術をした人に
協力をしてもらった実験です


まず、その人の左耳に
右の耳には聞こえない小さな声で
「歩き出してください」という
指示を出します


すると
左耳からの音は右脳に伝わりますので
彼は、右脳だけでその指示を聞いて
それに従い、歩き出します


手術をしていない脳梁のある人は
片方の脳に情報が入れば、脳梁を通じて
もう片方の脳にも伝わりますが
脳梁のない彼は、この時
左脳には何の情報も入っていません


実験の観察者は


「彼の左脳は情報を受け取っていない
なので、この時の彼の左脳は
身体が勝手に動き出したように感じる
のではないか」
と予想していました


そして、その予想の確認のため
観察者は、彼が歩き出した後に
情報を受け取っていない彼の左脳に
小さな声で右耳から
「あなたは何故歩き出したのですか?」
と尋ねます


すると、観察者の予想に反して
情報を受け取っていない彼の左脳は
「喉が渇いたので、飲み物を買うために
歩いているのですよ」と
自信満々に答えたのです


驚くべき答えですね


おそらく、動き出した瞬間には
彼の左脳は「身体が勝手に動いた」と
感じたでしょうが、その数秒後には
「身体が動いたこと」に対する
納得できる理由を創作し、それを
自分の意思が主導して実行していると
数秒前にさかのぼって
自分に思い込ませている訳です


自分で自分をだまし
だました事を忘れています


ものすごく高性能な「辻褄合わせ」です


たぶんこの現象は
彼の左脳の特有の事ではなく
普段の私たちにも起こっています


私たちの脳は
意識には昇らない多くの情報処理を
自然現象のように「自動的に」
実行していて、身体は
それに従い自動的に動いています


そして、それとは別に
その行動に理由や整合性をつけるための
情報処理もしていると思われるのです


それが、結果的に
「自由意思」という「夢」を
私たちに見せているのかも知れません


また、自由意思も単に
整合性の為だけに存在するのではなく
正常な「無意識の指示」を
「顕在意識」に行き渡らせるための
機能としての意味もあるように思えます


ただ、意識も無意識も
聖なる真理に基づいているというより
生きるための都合のよいロジックや
トリックで出来ている感じがします


そしてこれ以外にも、身体は
たくさんのよく似たトリックを
使っています


目には物理的に盲点がありますが
片目で普通にものを見る時も
私たちはその盲点に気付きません
それは、その欠けた部分の映像を
脳が都合よく補完しているからです


また、耳に聞こえる音も
音の全てを意識に上げている訳ではなく
必要のない音は
ノイズキャンセラーのように
削除補正しているのです


他にも、私たちは
網膜に映った2次元平面のデータを
辻褄が合うように3次元世界として
解釈しています


そもそも私達が、この3次元世界で
当たり前のように感じる
「大きさ」や「長さ」というものも
実際に存在するのか
科学的にはまだ解明されていません
もしかすると「大きさ」や「長さ」も
幻想であるのかも知れません


確かに
目や耳の補正は便利なものです
盲点を気づく必要もありませんし
ノイズを聞く必要もありません
また、3次元世界や「大きさ」に
ついても、現状では不便はありません


ですが、「意識」については
問題が発生しています


それは、創作された夢である「私」や
都合よく作られた「思考や感情」に
同化し過ぎているためです


結果的に作られた道具である
「夢や幻影」が、自分を
「あるじ」であると勘違いしてしまい
それが暴走して「苦」を
生んでいる訳です


おそらく本体であるところの無意識と
力を持ち過ぎた道具である顕在意識が
分離し過ぎて、統合失調気味にも
なっています


しかし
スピリチュアル的に覚めている人は
無意識を適度に顕現化させていて
そこにも軸足をもっています
身体が自動的に動いていることも
自由意思がないことも
「私」が幻想であることも
創作は創作として正確に見ていて
それに惑わされません


つまり、世界は無意識という
自動的な川の流れの様なもので
覚者たちは、その流れを
そのまま、ありのまま見ている訳です


覚者が「これ これ ただこれ」と
言ったりするのは、トリックや
都合の良いロジックを排した
川の流れそのものの状態を見ている事を
示しています


しかし、それに反して
私たちが同化している
「私」や「自由意思」や「概念」は
「この流れは、ちがう」
「流れはこうなるべきだ」
「こう流れたい」
と言って流れをせき止めます


流れを止めれば、抵抗が生まれ
それらが「苦」になる訳です
覚者はそれを見破り
「苦」を退けているのでしょう


とは言っても、聖人のように
「流れをありのまま受け止め
無為自然に生きても
私も自由意思もない人生なんて
何も楽しくないじゃないか」と
考える方もいると思います


確かに
私が、私の能力で、私の理想を
困難を排して、築き上げていく
といった少し古典的な楽しさは
薄いかも知れません


ですが
あまり気にする必要はありません
私たちが探している
スピリチュアルの幸福には
それとは違う感じの趣があるのです


例えるなら
サーフィンの楽しさのような感じです


サーフィンは
たとえ上手に波に乗ったとしても
どこかに行ける訳ではありませんし
波に乗ることに「意味」もありません
そして、何の役にも立ちません


ただ、自然に発生する波に逆らわず
上手に乗れた感覚だけを楽しみます
本当に上手く乗れた時は
自分が消滅し、自然と一体となります
そのワンネスの至福を味わう為だけに
何回も何回も波に乗るのです


このサーフィンに似ている
スピリチュアルの幸福を
科学的な言葉で表現するならば


本来の「あるじ」である無意識に
だんだんと回帰していく感覚
あるいは、無意識と顕在意識の統合と
言えるかも知れません


そして、現実社会における感覚でも
波(無意識)に乗れたならば
世界があなたを応援しているように感じ
ものごとが流れるように
上手くいっていると感じられます


このスピリチュアルな幸福の感触は
やがて世界の多くの人が気づきますが
今現在のスピリチュアルな人たちは
それを少し先取りしている訳です


そして、ここまで話した
科学的なことや
スピリチュアルの気づきは
意識と無意識の世界内での悟りであり
実用的な悟りです


この先の悟りは
意識も無意識も超えた悟りであり
科学や哲学でも未解決で
スピリチュアルでも難問の領域です


それは
幻想であろうが、事実であろうが
精神的なものも、物理的なものも
想像したものでさえ
それが「在る」と認識されていることの
不思議です


または「在る」こと自体の不思議です


この問題に対して科学的に思考を使って
解明しようとすると
漏れなく無限後退が起こります


哲学が「主体と客体」を使って
「存在」を突き詰めても
ハイデガーが「底は底なし」と
表現するような無限後退が起こり
心理学が「認識やクオリア」を
物理学が「大きさの正体」を
量子論が「観測」を突き詰めても
それぞれが、無限後退を引き起こします


科学的な思考による理解というのは
ある事象を解明しようとする時は
その事象が存在している次元より
一つ上の次元から見ることにより
それを理解しようとします


これは、例えれば
人が自動車を運転する時には
2次元平面上を移動する訳ですが
その時、ドライバーは
地図やカーナビを見る事で
自動車が移動する世界を
より解りやすく理解します


これは、道路や街という2次元平面を
鳥の視線、上空からの視線という
3次元空間から見ることで
より深く理解している訳です


そして、この科学的思考の欠点は
より高度な事象を理解するためには
それ以上の次元に上がることを
永遠に続けなければならない点です


数学的には
次元は無限に存在するので
次元上昇が、無限に続き
際限がなく、答えが出ません
これが無限後退ということです


それに対し、スピリチュアルでは
無限に続く次元上昇のような方法は
とりません


むしろ「次元還元」をおこないます
次元上昇の方向とは逆に
次元の「源」に立ち返る訳です
次元の「源」は「0次元」であり
数学的に言えば「点」です
点は、幅も奥行きも高さも持ちません
もちろん、時間軸もありません


ブッダ
この「0次元」を「空」と
表現していたのかも知れませんし
そこに
「在る」ことの秘密や
「認識」の秘密を
あるいは、究極の平安を
見つけたのかも知れません