スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

「私」が消失したあとに何が残るのか 悟り②

「私」が消失し個人性が消えると
感じ方が変化します。


私の身体ではなく、ただ身体があり
私のマインドでなく
ただマインドが存在し
ただ感情があり、ただ月があるのだ
と、感じるようになります。


身体もマインドも感情も通常どおりに
動いていますが、もはや特別なものではなく
木や月や雲と同等です。


悟った人が良く表現する
「これこれ、ただこれ」の状態が現われている訳です。


そして、次の疑問がやってきます。


意識の中に現われる「これこれ、ただこれ」
というのは「認識された対象」です。
つまり、客体である訳です。そして
それを認識している主体は不明なのです。


身体やマインドや感情、木や月や雲を
認識している主体は何なのか?
という疑問がやってくるのです。


そして、ここでよく登場する
定番のスピリチュアル系の説明があります。


それは「意識が意識を認識している」
というものです。


ですが、この解説は破綻しています。


意識を認識する意識がある
と、認識された時点で
その意識はすでに何かに認識された客体
になってしまうからです。
そして新たな主体探しとなり
結果、無限ループに陥るのです。


では本当の主体とは何なのでしょうか?


答えにたどり着くには
この客体の特徴から考える必要があります。


客体である「意識の中のすべて」は
「存在するものすべて」という意味に
なります。何故かと言えば
意識されずに存在するものは無いからです。
誰にも意識されずに存在するものを
探し当てたとしても、探し当てた時点で
意識されているからです。


そこで客体を変換していきます。
「客体」
  ↓
「意識のすべて」
  ↓
「在るもの全て」と、なります。


「在るものすべて」が客体ということは
主体はそれ以外のもの
つまり「無いもの」という事になります。


その「無いもの」という主体は
具体的に表現をすると
「無」「沈黙」「静寂」「余白」「スペース」
です。


「沈黙」や「無」が
個人性のない身体やマインド、感情を
認識しているのです。
確かに、これを腑に落とすのは
少し難しいかもしれません。
特に個人性があるうちに
これを納得するのは、とても難しい。
しかし
個人性がだんだんと消失するに従って
「主体=沈黙」が浮かび上がって来ます。
むしろ
個人性がある程度消失した段階では
「主体=沈黙」を無視するのは難しいくらいになります。


だから、個人性を消すための
「私はいない」という問いかけが
探求においての基本の大原則である訳ですね。


そして、
この「主体は沈黙」の悟りを分かった人が
「私は無だ」と言ったり
質問者に対して
沈黙で答えたりするのです。
「神」と表現する人もいますね。


この悟りは素晴らしいです。


この「沈黙と静寂」が解かるように
なると、一見無機質に見えるこれが
言い表せない優しさに満ちている事が
分かります。
そして、悟りというものが
ある特定の人物に宿るものではなく
あらゆるものに遍在していることが
体感できます。


この悟りは、お薦めです。
言葉によるガイドが可能で
多くの人がこの場所で寛げます。
そして人間生活へのプラスも
とても大きいです。


しかし、探求者の道にはこの先があります。

ー「私」が消失したあとに何が残るのか③へ続くー