スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

本当の愛

「愛」という言葉は
世間に、あふれています。
皆、割と気軽にこの言葉を使っています。


誰々を愛する
月を愛でる
愛弟子
愛玩動物
相思相愛


こんな感じで、色々と使いますよね。


そして、この普段使いの「愛」には
その使い方に特徴があります。
これらには、常に目的語があるのです。


彼氏を愛するとか、娘を愛するとか
自然を愛するとか、歌を愛するとか


この使い方は普段使いなら良いのですが
スピリチュアル的に言うと


この「愛」は偽物です。


彼氏を愛するという事は
彼氏以外はより愛さないという事。
自分の娘を愛するという事は
他人の子供はより愛さないという事です。


ここには常に
「差」が生まれてしまっているのです。


私達が普段使っている「愛」は
結局、「優遇」や「優越」の意味で
使われています。


「愛」という立派な名前を
使っている割には
中身はかなり差別的ですし
愛とは似つかわしくない「冷遇」などを
生み出しています。


「分け隔ての無い愛」と言う言葉も
ありますが、実際に使われているのは
「分け隔てのある愛」です。
というよりもむしろ
「分け隔て」そのものです。


しかし、これは当然なことなのです。


実は
私たちの「マインド」や「こころ」は
「優遇・優越」を食べて生きているのです。

 

私達のマインドは
他の人達よりも優しくされると喜び
他の人よりも収入が上がると喜び
他の人よりも容姿が良いと喜びます。


そして、私達は
それを喜ぶ「マインド」や「こころ」が
自分たちの本体だと思っています。


その私達の本体が
「優遇と優越」という「差」を
主食としていると思うと
少し寂しい気分になりますね。


でも、安心してください。
実は私たちの本体は別にあります。


しかし
私達は、その本体を忘れて
マインドやこころに同一化しています。
逆に言うと
マインドやこころに
乗っ取られた状態
憑りつかれた状態にあります。


それは、あたかも
亡霊やファントムのようです。
私たちは亡霊やファントムに
憑りつかれた挙句に
その亡霊やファントムの方を
自分であると思い込んでいます。


そして、ファントムである
「マインド」や「こころ」は
スピリチュアル的な「本当の愛」を
与えられたとしても
まったく嬉しくありません。
与えられても、食べ物に感じられません。


なので、マインドやこころは
「本当の愛」に興味が無くて
それを探そうともしないのです。


しかし、スピリチュアル的な幼生期が
終わろうとしている人たちは
少し事情が違ってきます。


普段使いの「愛」に
少し違和感を覚えるようになります。


「愛」は分け隔てが無い筈なのに
実際は「分け隔てそのもの」であるという
この矛盾への違和感です。


最初は軽い違和感かもしれませんが
徐々に「本当の愛」に興味が出てきます。


では、「本当の愛」とはどんなものでしょうか?


本当の愛は、目的語を持ちません。
「ただ愛」で単独で存在します。
あえて言うなら
「ジャッジの無い光」「判断しない認識」
と、言えるかもしれません。


実はこれが私たちの本体でもあります。


しかしこの愛は、最初の印象が
あまり良くありません。
はっきり言えば「無味乾燥」です。
それは普通の「沈黙や静寂」です。


マインドが見る風景としては
「全てを愛している愛」は
「何も愛していないもの」として
捉えられてしまうのです。
なぜなら
マインドは「差」しか認識できない
からです。
山の頂を認識できるのは
より低い斜面や裾野があるからです。
本当の愛には差がありません。


その本当の愛を、無味乾燥なものと
見せている一番の障害は
「私」という個人性の幻想です。
「個人性」を持つものは、
全てを愛するということが
理解できないのです。
個人性というのは生を受けたあと
最初に生じる「区切り」です。
最初に自と他を分けているもので
それは結果的に「差」を作ります。


実はこの区切りには根拠がありません。
任意で区切った幻想です。


マインドやこころはこの幻想の個人性を
起点として出来ています。


そして個人性の幻想を見破り
「私」が消失した時
「本当の愛」と同じ地平に立つことが
出来るのです。
「差」がないという同じ属性を
持った時のみ、それが共鳴し顕れます。


そしてその時
パラダイム転換や意識変容が起こるのです。


それが起こると
今まで無味だった
「沈黙や静寂」や「本当の愛」が
輝きだします。


何の意図もなく判断も裁定もしないそれ
けして喋らず、何の行為もないそれが
陽光のように数多のものに
分け隔てなくそそぎ
寄り添っていることが解ります。
それは、恩寵や祝福と
感じられるかも知れません。


最初それは、特定の人の瞳から感じたり
特定の出来事から感じたりするかも
知れませんが
やがて何処にでも遍在することを知ります。


その聖なる食糧を食べられるようになると
幸福の感じ方が変わってきます。


今までは「自我」や「マインド」が
「優遇・優越」を食べて幸福を感じて
いましたが
それが、少し昔の事のように感じられ
子供の時に
とても好きだった食べ物や遊戯に
興味が無くなるような感じになります。


そして
「愛」という名の聖なる食糧の味は
自我が好む高揚感を伴った幸福味でなく
形容できないほどの繊細な安心感といった
感じの味です。


「愛」はあなた個人が味わう物では
ありません。
その時、あなたはいません。
愛のみが存在するのです。


言い方を変えれば
あなたが愛そのものである事を
思い出す感じとも言えます。


その「本当の愛」で
少し人間的に
愛する人や大切な人と繋がりたい
という人もいるかも知れません。


その方法については
愛する人と本当に繋がるには
で書いています。


補足になりますが
本当の愛を知ってそれで満足して
至福を得るのは素晴らしい事ですが
それだけでは
個人性の無い神様のように
なってしまいます。


トータルでの幸福を目指すには
少し足りません。


スピリチュアル的には
少し邪魔者扱いされている
マインドとこころですが
これらが最初にできた時
その元になるものがありました。


それは、原初の個人性で
自他を分ける最初の「区切り」で
「差」でもありますが
「魂」とも呼ばれているものです。
魂は、もともとは身体を守る
純粋な精霊のようなものです。
トータルの幸福を目指すには
これの世話も必要になります。


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