スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

悟りへの3つのルート

悟りを探求するマインドというのは
例えるならば
「なぜ地上は暗いのだろう」
「なぜ地上に日光は届かないのだろう」と
悩んでいる厚い雲のようなところがあります


そして、地上が暗い原因を探していくと
「あっ、僕が日光を遮っているのか!
僕が犯人なのか!」と
マインドや私は気づく訳です


ここから先の探求ルートは3つあります


一つめは
自分が日光を遮っている理解を
さらに進めるやり方です
「私」の洞察を進め
自らの幻想性や非個人性に気づく訳ですね
自分が、あると思い込んでいるから
あるのであって本当は世界があるだけ
私という「区分け」は、存在しないと
知る訳ですが
雲でいうなら蒸発霧散してしまうような
感じでしょうか
ただ、身体が生きていくために雲「私」は
必要なので、ある程度は戻ります


二つ目は自分が雲であることは認め
地表を見て嘆くのでなく
雲自体も何時も太陽に照らされている
という事に気づくやり方です
これは祝福や恩寵を感じる
神の視線を感じるというやり方ですね


三つめは自分の意識を雲から乖離させ
太陽の視点、神の視点に立つやり方です
これは自分を俯瞰するという方法です


一つ目のルートは
割と突発的に起こることも多いようです
突発的に自他の境界が消失して
その後、これは何なのかと
探求に入る人もいるようです
勿論、ラマナのように「私は何か」を
問い続けることでも、ゆっくりと確実に
たどり着けます
全ての基礎になる王道のルートです


二つ目のルートは
自らを諦観して
大いなるものや神を感じるという方法で
とても伝統的なルートです
しかし
素朴な人達にはあまりにも有効だった為
大宗教に利用され、ちょっと
変なものになってしまっています
本来のやり方で使えば
とても自然で強力な方法ですし
科学や常識という拘束から逃れている
純粋な人ならとても体験し易いルートです
世間には宗教に対する不信感が多い為
敬遠されがちなルートですが
意外に穴場的ルートです


そして三つ目のルートは
自分を俯瞰して真我の視点に立つ
というものですが
かなり、繊細で難しい手法です
ですが、「気づき」という言葉と共に
なぜか今の主流になっています
論理的に頭で理解し易いからなのかも
知れませんね
しかし
俯瞰は頭で考えるほど簡単ではありません
大体は
思考が2分割しているだけになっています
実はこれは、自分で統合失調に誘導する
ようなもので、とても危険なのです
もし、本当に俯瞰ができたならば
それだけで即座に変容が起こります
ある意味、鎖場のようなルートですね


どのルートが合うかは、人それぞれです
自分に合う登山道を行くといいでしょう
しかし、合う合わない以前に
この三つのルートをすべて試して
みるのも良いかも知れません
道が立体的に見えるようになり
山全体のイメージが掴めるからです


なぜなら、この三つのルートは
お互いに補完し合っているからです
大いなるものや神には
個人性はありませんし
本当に俯瞰している時の視線は
ジャッジの無い視線で神の視線と同じです


ニサルガダッタの「在る」の感覚などは
俯瞰する視線
神からの視線
個人性のない視線
を包括して指しています


この三つのルートでたどり着く地点は
素晴らしいところです
安心と幸福と恩寵があります
現実(幻想)社会でも大いに幸せになります
この境地は、自他の分離が無くなり
ワンネスの世界が現われます


しかし、その世界には
まだ存在や意識や認識が残っています
存在や認識があるということは
主体と客体という分離があるという事です
そこには統合する余地があります
つまり、その先もあるという事です
山の頂に着いても何故か先があるのです
地続きですらない先です


まだ
楽しい冒険は終わらないという事ですね