スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

「分からない」を愛する

瞑想やスピリチュアルの探求をしていると
「全然わからない」と思えることも
「あ、少しわかったかも」と思えることも
何度となく訪れます


そして、「分かった」と思った場合でも
少し時間が経ってしまうと
思い出そうとしても、なかなか
その時の感覚を説明できなく
なることが多いようです


しかし、悟りの感覚は
「明確に分かる」よりも


「分からない」とか
「分かったと思ったけど説明できない」
という状態の方が
むしろ正しい感覚です


というのは
私たちの「分かる」という反応は
言葉が示す通りに


分けて差分を比較する
分割して整理分類する
要素を切り取って単純化する
という意味であり
マインドが行う仕事であるからです


例えば
ワンネスの世界にいる者は
ワンネス状態は当たり前なので
「分かっている」とは思いません


分割された世界にいるマインドが
ワンネスを垣間見た時に、初めて
その差分や変化を「分かった」と
表現します


では、「分かる」ということが
意味の無い事なのかというと
けしてそうではありません
重要なマイルストーンとなります


ただ、悟りは「分かる」で
完結するものではなく
「分かる」と「分からない」を
交互に繰り返して深まっていくものです


むしろ
この二つを、一つの波動のように
同時に存在するもののように捉えた方が
良いのかも知れません


そして、この波動を見る時は
「分かる」と同等以上に
「分からない」が大切なのです


私たちは、何かにつけ
「分からないといけない」
「分からないとすっきりしない」
「頭が悪いから、分からないんだ」
と思ってしまい
「分かること」に執着しがちです


ですが「分かった」と思うことは
単にマインドが、分割作業をしている
だけなので


スピリチュアル的に凄いことが
起こっているというよりも
わりと機械的な現象なのです


洗濯物を分類し畳んで収納した的な事が
起こっている感じです


それに対して
「分からない」に対峙している時は
分割不能なものを
初めて見るように
ありのまま、そのまま
ジャッジ無しで見ている状態です


マインドは
この状態を不安に感じて嫌がりますが
実は、とても高度な状態です


「分かる」は分離分割の世界ですが
「分からない」は統合の世界です
そして、この二つは
表裏一体で一つのものです


私たちは「分かる」と喜びますが
むしろ「分からない」を喜んで
あげて下さい


マインドが不安を感じた時は
少し離れて俯瞰します


そして「分かろう」とは努力せずに
「分からない」を丸ごと受容します


「分からない」と気軽に戯れ
「分からない」に寛いで、それを
愛して、楽しみます


その時
「分からない」に触れているものは
当然マインドではなく
思考でもなく、感情でもなく
感覚でもない何かです


やがて「分からない」ことに
何とも言えない心地よさを
感じてくるでしょう