スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

ゲシュタルト崩壊と悟り

あなたは
ゲシュタルト崩壊という奇妙な体験を
したことがありますか?


これは、自分の手のひらをじっと
長時間、ただ見ていると
自分の手が、手ではなく
肌色の奇妙な物体に見えてきたりする
不思議な現象です


そして
ひらがなや簡単な漢字などを
じっと見ている時などには
何やら文字ではない未知のものに
見えてきたりもします


これは普段、私たちは手のひらを
「手」という一纏まりの意味や構造で
瞬間的に認識しているのですが


いつもの認識に要する短い時間を超えて
長い間、無意味に凝視し続けると
その物体の持つ意味や構造を
いつもの短い時間以上は保持できなくなり


その構造や概念が崩壊するというものです


そうすると
意味や構造で上塗りされていない
そのものの本体が露見するのです
その奇妙な肌色の物体が
本当のあなたの手という事になります


ゲシュタルト崩壊は20世紀初頭の
ドイツのゲシュタルト心理学から
生まれた言葉です


ゲシュタルトとは「一纏まりの構造」
という意味です、概念や意味と言っても
良いかも知れません

 

このゲシュタルト崩壊
「手」や「文字」の構造崩壊の他にも
ある行動を意味なく繰り返したりすると
行動の趣旨や意味が解らなくなったり


他人の日本語の会話をただボーっと
聞いていたりすると、その会話が
未知の外国語の会話のように
聞こえてきたりします


そして、自分の姿を鏡に映し
長時間ジーっと見ていると
その鏡に映っている人物が誰だか
解らなくなることもあります


この鏡を使ったゲシュタルト崩壊
拷問にも、使われていたようです


捕虜を鏡の前に座らせ
鏡に映った自分の姿に対し
「おまえは誰だ」と何日間も
問い続けさせるのです


すると彼の自我という構造が完全に
崩壊するのだそうです
そしてその時、何かを聞き出したり
新たな人格や思想を吹き込んだり
していたようです


とても恐ろしい事です


ですが、これは
「覚醒のための手法」と
とてもよく似ています


大覚者ラマナは、探求者に
覚醒の為には
「私は誰か」を自らに問い続けなさい
と言いました
これは自我という幻想(構造)を
崩壊させる為なのです


また、単純なマントラ
意味なく何日間も唱える修行も
ありますし
禅宗などでは、単純で退屈な
作務の繰り返しを大切にします


悟りや覚醒を促すためのワークは
ゲシュタルト崩壊
故意に誘発させる為であるかのような
手法が多いのです


確かに、自他の境界なども
私たちが勝手に決めた概念の構造ですし
幸福や不幸の線引きも概念の構造です
セルフイメージも記憶という構造体です

 

そして
ゲシュタルト(構造)というものが
鏡で自分の姿を見たり
手のひらを見つめるだけで
なぜ簡単に崩壊してしまうのかというと


それは、ゲシュタルトの正体が
仮に付けた名前や概念であって
偽物である為です


私たちが、普段
構造として認識している世界は
そのものの本体ではないのです
本物はけして崩壊することはありません


それでは、偽物を見ている私たちは
全面的にゲシュタルト崩壊をすれば
思い込みや価値観やバイアスや概念から
自由になり、本当の世界を見つけ
覚醒する事になるのでしょうか?


残念ながら
突然のゲシュタルト崩壊だけでは
覚醒というよりも
スピリチュアル的な事故になって
しまいます


というのは、通常の私たちは
概念の構造体である人格や「こころ」を
唯一の確かな自分であると
完璧に信じているからです


全面的突発的なゲシュタルト崩壊
構造が盛大に崩壊してしまいます


「こころ」という家に住んでいる私達は
「こころ」の構造が消失すると
その中にいる私達も
同時に消失してしまうのです


通常の私たちにとって
その崩壊は、逃げ場がなく
恐怖であり、虚無であるため
精神に異常をきたす事になるでしょう


スピリチュアルでは、ごく稀に
無理に覚醒を試みたことが原因で
脳を焼かれた、廃人になったという
ことが起こるのは、たぶんこれです


真摯なスピリチュアルの探求では
ゲシュタルト(幻想)を見破る前に
幻想ではない本当の自分の本体に
あらかじめ触れておく必要があります


こころや人格やゲシュタルト(構造)が
水面に映った月だとすると
それを映す静かな水面が
私たちの本体です
「沈黙と静寂」という全てを包む愛が
私たちなのです

 

そして
水面に映る月という構造を
崩壊させるのでなく


静かな水面から、月を認識し
それと同時に、それは映っているだけの
単なる影(概念の構造)だと
俯瞰しておく必要があるのです


月を無くすことが自由ではなく
有っても無くてもどちらでも良くて
どちらも使いこなせて遊べることが
本当の自由となります


十牛図」という禅の悟りの段階を
表している有名な図がありますが


その最後を示す図は
全てが消失した「空」ではなく
酒の徳利をもった陽気な人物が
町で活動をしたり
人と会ったりしている所が
描かれています


つまり、覚醒の最後には
ゲシュタルト(構造・幻想)を
自由に使う事も遊ぶ事も大切なのだと
いうことです


ただ
「存在の深海」を探索したいと
思っている冒険者
沈黙と静寂という愛に
しっかりと足を着けた上で
人格のゲシュタルト(構造・幻想)を
故意に崩壊させてみるのも
面白いかも知れません


手のゲシュタルトが崩壊した時には
手という概念構造は崩壊しましたが
「肌色」という構造や
「物体」という構造はまだ残っています


そして
「肌色」や「物体」という概念構造を
崩壊させると光の洪水が現れます


最後に、光のゲシュタルトも崩壊すると
認識不能の「無」となります


結局のところ「存在」とは
固く確かなものではなく
階層的なゲシュタルト(概念)だけで
あり、他には何もないのかも
知れませんし、もしかすると
さらにその先には、想像を超える何かが
あなたを待っているのかも知れません


「沈黙と静寂」を分かった上での
ゲシュタルト崩壊の試みは、きっと
手に汗握る楽しい冒険となると思います