スピリチュアル自動日記

スピリチュアル.悟り.瞑想.についてメッセージを発信します

ただ思考に気づいていれば良い?

「瞑想をする時
頭に思考や想念が渦巻いてしまって
なかなか上手くいかない!」


という悩みに対する定番の回答は


「想念や思考はあなたのものではなく
自動的に起こっているのだから
ただ、それに気づいていれば良い
または、観照していれば良い」


というようなものです


確かにこれは
「想念や思考は、私ではない」
という「理解」としては重要です
ですがそれは、そう理解した時点で
済んでしまうものです


つまり、瞑想中にそれを
ずっと気づき続ける必要は無い訳です
というか、あまり意味がありませんし
楽しくもありません


また、この時
そこで何が起こっているかというと
自分の想念を二つに分割して
一つの想念をもう一つの想念で観察して
いるという状態が起きているのです


これは、二つの想念達が
そこで戯れているだけなので
それによって
「瞑想が深くなる」ということも
あまり起こりません


居合道や剣道ではこんな言葉があります


「勝負は鞘(さや)の内で決している」


これは、武士の勝負というのは
刀を抜く前に、既に決している
という意味で、結局、物事は
「準備段階で既に決まっているよ」
という意味の言葉です


実は、この言葉が
瞑想にも当てはまります
つまり、瞑想前の環境作りの段階で
思考や想念に悩まされるか、否かが
既に決定しているのです


考え事や心配事に焦点が合っていたり
イライラしたりしているという事は
瞑想するのに良い環境ではなかった
という訳です


それに対して、環境作りが
上手く行った場合の瞑想の一例は
こんな感じになります


その時
あなたが、雑談をしていても
お茶を飲んでいても
自動的に瞑想がやって来ます
会話をしていてもそれと並行して
瞑想が起こりだします


あなたは、抗えない心地良い力によって
どんどんと静かになっていき
自分の思考や想念に対しても
まるで興味が無くなっていきます


思考や想念が
有っても無なくてもどうでも良い
薄い煙のように感じます


そして、あなたは
煙の発生している次元そのものにも
興味が無くなり
より深く静かで優しい次元に
降下または上昇していくような感じを
受けるかも知れません


場所は変わらないのですが
次元が変化する感じです


やがて
新たな次元のその中心部に
何かがある事を発見するでしょう


とてもそれに惹かれます


その中心の感じ方は人それぞれですが
光の球に感じられたり
優しさの球に感じられたり
音楽の球に感じられたりします


それがあなたの本当の中心です
「あなた」と言うよりも
それは人称のないただ中心です
ここまで来ると、思考や想念の事は
もう完全に忘れています


私たちは、直感で
この球体が「例のもの」だと
理解できます


そして
この光球に近づけば近づくほど
痺れるほどの心地よさを感じ
それと反比例するように
自分の意識は薄くなっていきます


いよいよこの光球の中に入ると
その瞬間に意識と時間は消滅し
そこから出てきた時は
そこに居た間の記憶はありません


サマーディには段階がありますが
光球に入った時点で
一番深いサマーディが起こっています


これは上手くいった瞑想の一例ですが
環境作りが上手くいけば
こんな感じにもなる訳です


では、具体的に
どのような環境を整えれば
良いのでしょうか


実は、自然の中やあなたの部屋の中
または、新宿の雑踏の中でさえ
完璧な環境なのです


あらわれる全てのもの達は
既に完璧に準備をしています


しかしながら
それらが発する声は、完璧過ぎて
マインドや意識には理解できません


なので
マインドや意識が理解できるように
翻訳することが、必要になる訳です
それが、瞑想環境の準備になります


その翻訳された環境とは
あなたが自他ともに全肯定される環境
あなたが決して値踏みされない環境
そして
ジャッジ無しの視線が溢れた環境です
また
過去や未来でなく刹那を愛し
自他の境界は幻想であるという
理解が行き渡っている環境です


一人でこの環境を作る時は
「あらわれ」が発する沈黙という声を
翻訳することで可能となりますが


より現実的で作り易いやり方は


瞑想環境を既に理解した複数の人が
お互いに影響を与え合う形
共鳴し合う形で瞑想をすると良いです
人が発する波長は
マインドが理解しやすい為
翻訳はかなり上手く行くのです


実際には
石も風も鳥も高い波長を出していて
良い環境を作っているのですが
私たちの意識やマインドが
理解できるように、ある程度
「意味のある」「言葉になる」波長まで
人が純度を落とす必要がある訳です


なかなか作るのが難しいこの環境ですが
それが、出来てさえしまえば
その場には、本当に恩寵が降り注ぎます
そして、瞑想は成功したも同然なのです


また、普通の生活の中でも
翻訳された環境が偶然訪れることが
あります、これは嬉しいギフトです


もしかすると
「私が瞑想をする」というのは
実は不可能なことであって
私たちが、唯一出来ることは
「瞑想が、降りてくる為の祭壇を
整えて待つこと」だけなのかも
知れませんね